太田述正コラム#4264(2010.9.19)
<米国人の米外交・安保政策批判(その2)>(2010.10.19公開)
(4)太平洋戦争
「・・・ダワーは、米国人達が自分自身のために取ってある諸基準以外の諸基準でもって他の社会を判断するのがいかなる場合かを記録するとともに、これらの仮定がもたらすものでもって<米国人達を>苛むことにとりわけ長けている。
このような二重基準の幾ばくか<の原因>が人種的侮蔑であることを、彼は、以前、誰よりも早く『容赦なき戦争–太平洋戦争における人種差別』(War Without Mercy: Race and Power in the Pacific War) (New York: Pantheon Books, 1986)<(コラム#3784以下)>の中で取り上げた。
この本を良く知っている読者にとっては、米国人達が日本人達に対する彼等の生来的優越を宣言するにあたっての見下したような言葉使いや、日本人達の米国人達のそれの写し絵のような、人種的自尊心に立脚した特権意識がいかほどのものであったかについて、<今更>驚かされることはないだろう。
1940年代には、人々は、それぞれの人種主義的見解についてよりあからさまだったわけだが、ダワーは、遺憾なことに、「タオルをその頭に付けた人々<(スカーフをかぶるイスラム教徒たる女性達のことか(太田))>」と「長くてゆるやかな外衣をまとったアラブ人達」に対して類似の侮蔑を強調するところの最近の<米国人達によるイスラム教徒に対する>評価を容易に見出す。
しかし、人種主義は、無視することは不可能であるとしても、それは、問題のど真ん中に位置してはいない。
それは、人種的根拠だけではなく、自分の社会がより金持ちでより影響力があるのでより優越しているという傲慢な物の考え方に帰せしめられるのだ。
このうぬぼれ(smugness)が、敵の意図だけでなく敵の能力についての十分すぎるほどの証拠があったというのに、ダワーが注釈を加えるように、日本やアルカーイダによる効果的な攻撃の可能性について、要するにどちらについても想像することができなかった理由を説明してくれる。
それ以上に心配になってしまうのは、彼が穏やかにここで結論づけるように、どちらの場合においても、攻撃を受けたことの衝撃が、米国人達をして、日本人ないしアルカーイダの軍事的能力を過小評価していたところから、<米国の>9.11<同時多発テロ検証>委員会が述べたように「全能の、殺すことが不可能な破壊を旨とするヒドラ」に関するもの凄い不安へといきなり飛び移らしめたことだ。・・・
→米国人の人種主義やうぬぼれを指摘し指弾するのは大変結構ですが、何度も繰り返したように、1941年の日本と2001年のアルカーイダを同列視することはナンセンスであり、ダワーの歴史家としての感覚を疑わざるをえません。(太田)
・・・日本の指導者達は、アジアの大陸部の大きな部分をコントロールすることが国家安全保障にとって枢要であると一旦意思決定するや、日本の拡大を押しとどめようとする米国の強い圧力に直面した1941年に、戦争を拡大しないことは極めて困難となったのだ。・・・
→1941年の開戦が不可避であったことをここではダワーも認めてしまっているところ、その原因を以前の意思決定に帰せしめるのはともかくとして、その意思決定が「非合理的」であったことを臭わせていることには大いに問題があります。(太田)
ダワーは、この箇所で、ハースト系の新聞群が1945年に、・・・ビジネスウィークに2頁に及ぶ広告を載せ、自分達の読者達に対して1890年代から・・・真珠湾攻撃直前まで・・・50年間にわたって・・・日本が危険であると一貫して警告し続けて来たことを、いかに自ら祝ったかを描写する。・・・
この誌面には、日本の兵士が朝鮮半島に太陽を背にして立ち、その影が太平洋を横切って米国の西海岸にまでかかっているところの、1905年の「驚くほど予言的な漫画」が再掲載された。
それがいかに1890年代に「ハースト系の新聞群が日本が米国の太平洋における諸目的と諸利益にとって「黄禍」であるかを最初に指摘した」かを、また、それがいかに1898年に「日本の太平洋における増大する力に対抗する防衛措置として米国によるハワイ諸島の併合を促した」かを、更には、ハースト系紙がいかに1912年に「日本のカリフォルニア南部に<日本人を>植民させようとする試みに対して国家的注意喚起をした」か、等々を経て、1941年に至って、「ハースト系新聞群が真珠湾に爆弾が投下される瞬間の直前まで太平洋における海軍割り当ての増大と基地のより堅固な要塞化を叫び続けた」かを自慢した。
ここには、想像力と「心理的準備」が豊富であるように見える。
そして、米国は、実際に、日本の興隆を見越した戦略的諸政策を採用したのだ。
すなわち、ハワイは1898年に併合され、1905年からは、海軍の計画者達は、日本を太平洋における主要仮想敵国に同定したのだ。・・・
→以前(コラム#3976以下で)触れたことがある話を補足するものです。(太田)
ダワーのこれまでの著作の読者達は、・・・彼の主要テーマの一つについても認識するだろう。
それは、これらの記者達は米国の聴衆のために書いていたのであるけれど、日本政府の役人達を含む日本の人々もこれら論説を読んだということを。
換言すれば、ハースト系の新聞群の敵意は間違いなく米国との戦争が不可避であるとの信条を日本人に形成するのに貢献したということだ。・・・
→このダワーの指摘はもっともですね。(太田)
・・・アジアを欧米の帝国主義から救うという日本の戦時中の自己欺瞞・・・
→こういう言い方にもダワーの歴史家としてのセンスの悪さが表れています。
前述したように、これは副次的な戦争目的であり、半ばプロパガンダではあったけれど、半ばは本心であり、現に終戦後、インドネシア等において、かかる戦争目的を信じていた日本兵で、独立戦争に加わった者が数多く出たところです。
何よりも特筆されるべきは、この副次的な戦争目的については、日本自らの力で、ほぼ完全に達成したことです。(太田)
<記者>:11月27日に「戦争警告」メッセージを受信していたのに、艦隊を真珠湾に置いておいたのはどうしてだ?
キンメル(<Husband Edward >Kimmel<。当時の米太平洋艦隊司令官
http://en.wikipedia.org/wiki/Husband_E._Kimmel (太田)
>):分かったよ・・・。答えよう。私はちっこい黄色い畜生どもが日本からこんなに離れたところでこんな攻撃をやらかすことができるだなどと夢にも思ってなかったのさ。・・・
→当時の米国人の人種主義躍如というところですが、キンメルは、単に自分の職務怠慢の言い訳をしているとしか聞こえませんね。(太田)
日本の魚雷は米国のそれらより性能が高かった。・・・
日本のソナーを米国は自分達のより劣等だと信じていたが、米軍が当時持っていたものより4~5倍強力だった。
高速の三菱の「零戦」は1940年に支那での戦闘に投入されたが、当時の米国のどの戦闘機よりも効果的だった。
米国は、その航続距離、速度、機動性を過小評価した。・・・
・・・1930年代に日本が開発したところの、陸上を基地とする<三菱の>一式陸上攻撃機(Betty medium bomber)は、「世界中で就航していた他の中爆のいずれよりも航続距離と速度において優っていた。」・・・
→このあたり、面白いですが、下出のようなミスを犯すダワーのことですから、彼の言っていることがすべて事実であるかどうかは疑ってかかる必要があります。
この種の話こそ、軍事愛好家諸氏の見解を聞きたいところです。(太田)
日本の指導者達にとって、満州を含む支那が日本の経済的生命線であり、或いは、そこにおける戦争は単に国家的生存のために必須であるのみならず道徳的であり正義にかなっているという仮定に疑問を投げかけることは考えられないことだった。・・・
<1941年>11月17日、攻撃部隊に割り当てられた艦艇群は千島列島の<択捉島の>単冠(ヒトカップ)湾・・日露戦争以来、日本のコントロール下にあった・・に向かい始めた。・・・
→ここは、筆が滑ったでは申し開きができないダワーの致命的ミスです。択捉島は、ロシアとの関係では最初から日本領でした。(千島樺太交換条約で、択捉島より北の千島列島も日本領になります。日露戦争で新たに日本領になったのは、樺太の南部だけです。)
ダワーは日本に係る歴史家としての資格に欠けていると言われてもやむをえないでしょう。(太田)
ドル表示での米国の1937年の日本への輸出は支那への輸出の5倍を超えていたし、1940年でもなお、約3倍に達していた。・・・
・・・フォーチュン誌に1940年9月に掲載された調査では、米国の最も大きい750社の企業の社長達を含む「15,000人のビジネスマン」の見解を探ったという触れ込みだったが、回答者の40%が、日本との「宥和」を選択し、35%が「自然の成り行きにまかせる」を選択した。・・・」(C)
→これだけとっても、そんなに密接な関係があった日本を袖にして支那のしかも国民党腐敗ファシズム政権と手を結んだ米国の異常さは明らかですね。(太田)
(続く)
米国人の米外交・安保政策批判(その2)
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