太田述正コラム#4068(2010.6.13)
<インディアンの最後の栄光(その1)>(2010.10.22公開)
1 始めに
たまには、ほんの少しですが、息抜きをしましょうか。
S・C・グイン(S.C. Gwynne)の ‘Empire of the Summer Moon:Quanah Parker and the Rise and Fall of the Comanches, the Most Powerful Indian Tribe in American History’ の書評等をもとに、白人との混血のインディアンの酋長、クゥアナー・パーカー(Quanah Parker。1852~1911年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Quanah_Parker
の物語をお送りします。
A:http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2010/0611/Empire-of-the-Summer-Moon
(6月12日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2010/06/13/books/review/Barcott-t.html?hpw=&pagewanted=print
(6月13日アクセス。もう一つの本の書評を兼ねる)
C:http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/ent/books/stories/DN-bk_empire_0530gd.ART.State.Edition1.296031f.html
D:http://www.historybookclub.com/pages/nm/product/productDetail.jsp?skuId=1066510105
E:http://www.nytimes.com/2010/06/11/books/review/excerpt-empire-of-the-summer-moon.html?pagewanted=print
(この本からの抜粋)
なお、著者のグィンは、米国のタイム誌やテキサス・マンスリー・マガジン誌(Texas Monthly magazines)の元編集者であり、最近ダラス・モーニング・ニュース紙のスタッフの一員になった人物です。(A、C)
2 物語
(1)序
「・・・捕らわれた白人女性とコマンチ族<のうちの一つの支族の>酋長との間の息子であって、異常な、ほとんど超現実主義的人生を送ったところの、クゥアナー・パーカーを評価するにあたっては、以下を考慮せよ。
彼は、才気ある執念深い戦士であり、21歳の時に戦争の酋長となり、何百人もの白人の米国人の死をもたらした。
彼はまた、<その人生の>第二幕で、牧場主となり学校の理事長となり、映画に出演し、セオドア・ローズベルト大統領と友達になった。
ローズベルトは、彼を自分の1905年の就任式に招待している。・・・」(A)
(2)前史
「・・・コマンチ族の領域に最初に入った白人は、1540年、スペイン人探検家のフランシスコ・コロナド(Francisco Coronado)だった。
それから330年後、この部族は、その帝国を維持するためにまだ戦い続けていた。
その帝国は、一時、テキサスの大部分を始めとする、現在の・・・ニュー・メキシコ、コロラド、カンサス、オクラホマ<の>(B)・・・5つの州にまたがっており、コマンチ族は、スペイン人が<北上して>くるのを押しとどめ、彼等が今日の米国の大きな範囲をコントロールするのを防いだ。
スペイン人征服者達は、リオグランデ河以南の部族達を容易に打ち負かしたが、アステカ(Aztec)族より数が少なく文明度も低かったけれど、コマンチ族は、異なった特色を持った障害だった。・・・
パーカーの部族は、戦争のことでもちきりであり、スペイン人が北米に持ち込んだ馬に習熟するや、地上で最も敏捷で致死的な騎兵となった。・・・」(A)
「・・・コマンチ族は、<白人の>明白なる天命(Manifest Destiny)によって蒸気アイロンをかけられた沢山の<インディアン>部族のほんの一つではなかった。
彼等はインディアン中の超大国だったのだ。・・・
グィンは、19世紀における大平原(Great Plains)の諸戦争を、米国、メキシコ、そしてコマンチ民族(nation)という三つの帝国の衝突として提示する。
「彼等は、征服されたか隷属的地位に落とされたところの、約20以上の異なった部族をコントロールしていた」とグィンは記す。
「このような帝国的権勢は、地理の偶然がもたらしたものではない。
それは、150年にわたるところの、米国の最大のバッファローの諸群を抱えていた特異な土地をめぐっての、様々な敵の連鎖に対する、よく考えられた、継続的戦闘の産物だったのだ」と。
彼等の力の絶頂期であった1830年代末においては、コマンチ族は、テキサスとメキシコへの全面的侵略を考えたほどだ。・・・
何があったかと言うと馬だ。
スペイン人征服者達は、この動物を16世紀にメキシコに持ち込んだところ、それはすぐに北方へと拡散して行った。・・・
鍵となったのは、コマンチ族の戦士が<馬に>完全な襲歩(gallop)をさせながら弓を射ることができたことだ。他の連中でこれができた者はほとんどいない。
大平原では、これは、戦車からの攻撃に匹敵<する威力を発揮>したのであり、コマンチ族は、その軍事的優位を馬やバッファローの富んだ交易者となることに用いた。・・・
1860年代には、コマンチ族は、実に、<白人の北米における>辺境(frontier)をテキサスで押し戻しつつあった。
<白人への襲撃には、白人を畏怖させて追い払う目的と、経済的目的とがあった。>
若きシンシア・アン・パーカー(Cynthia Ann Parker)<(後出)>が捕らわれ殺されなかった理由の一つは、コマンチ族が自分達のバッファロー経済の景気を維持するために女を必要としたからだ。
男達はバイソン(bison)を殺すが、グィンが記すように、女達は「皮を整え衣類(robe)に装飾を施すといったあらゆる価値付加的作業をやった」のだ。・・・」(B)
「コマンチ民族の勃興と没落は170年間にわたった。
コマンチ族の襲撃者達の部隊が北部ニューメキシコのタオス・プエブロ(Taos pueblo)を攻撃して歴史にその姿を現した1706年から、最後の自由民たるコマンチ族が白旗を掲げてインディアン特別保護区(Indian Territory)であるフォート・シル(Fort Sill)に入った1875年までの・・。・・・」(C)
「・・・1869年には、大陸横断鉄道が完成し、産業化した東部と発展途上の西部とが結ばれ<るに至っていたことを考えてもみて欲しい。>・・・
大平原におけるその他の部族集団の大部分と異なっていたのは、<コマンチ族の>クァハディス(Quahadis)支族が、ずっとアングロサクソン(Anglo)との接触を峻拒し続けた点だ。
彼等は、一般原則として、<アングロサクソンと>交易すらしようとしなかった。
交易相手としては、コマンチェロ(Comanchero)として知られたところの、サンタフェ(Santa Fe)からやってきたメキシコ人交易者達をより好んだのだ。
これだけ打ち解けないものだから、1758年以降の数々のインディアン民族誌で様々なコマンチ集団(13あった)について記録しているものの中に、<クァハディス支族は>1872年になるまで登場したことがない。
この理由から、彼等は、西部の諸部族を破壊し全コマンチ族の完全に半分を絶滅させたところの、1816年と1849年のコレラの流行をおおむね逃れることができた。
<また、>事実上、北米の全部族集団の中で、クァハディス支族だけが<米国政府と>条約を一度も締結したことがない。
クァハディス支族は、最も堅固で、凶暴で、屈服することのない支族であり、北米大陸において、最も暴力的で戦争好きであるという評判を長く維持した。
彼等は、水が少なくなると、死んだ馬の胃の内容物を飲むことで知られていた。
こんなことは、最もタフなテキサス騎馬警察隊員(ranger)でさえやろうとはしなかった。
他のコマンチ族さえ彼等を恐れた。
大平原の全集団の中で、彼等は、インディアンが富を秤量する通貨たる馬に関し、最も富んでいた。
実際、彼等は、南北戦争後の頃には約15,000頭の<馬の>群を管理していた。
彼等はまた、「数知れぬテキサス牛」を所有していたのだ。・・・」(E)
(続く)
インディアンの最後の栄光(その1)
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