太田述正コラム#4070(2010.6.14)
<インディアンの最後の栄光(その2)>(2010.10.23公開))
(3)混血酋長伝
「・・・パーカーの母方の親戚達は、1836年にテキサスの辺境、現在のダラスの南方に自作農場を割り当てられてやってきた。
彼等は、メキシコ政府による気前の良い土地供与に申し出に惹き付けられたのだ。
彼等は、砦を建設し、武装していたけれど、このような生活様式を追求するには勇気と楽観主義が求められた。
中部テキサスでは、インディアンの襲撃が日常茶飯事だったし、パーカー一族には控え(backup)がなかった。
隣人も町も<、そして米国の外なので>騎兵隊も存在しなかった。
・・・シンシア・アンをしてコマンチ族たらしめることになったところの攻撃は、<パーカー>一族中5人を殺害し、5人を捕虜にしたが、その他の生存者達は、逃れるため、安全を求めてヒューストンまで65マイルを歩いた。
シンシア・アンは、捕らわれた時、9歳だった・・・
彼女は、10年後に消息が明らかになる。
テキサス平和使節団が、スキニングされたバッファローのまち(gore from skinning buffalo)で覆われた青い目の金髪の彼女をコマンチ族の村で発見したのだ。
彼女はもはや英語が話せなくなっており、そのままそこにとどまることを欲していた。
彼女は、<英語は話せなかったけれど、>スペイン語とコマンチ語のバイリンガルだった。
その2年後、彼女は、その3人の子供達の最初であるクゥアナーを生むことになる。・・・」(A)
「・・・インディアンの戦士とその白人の妻・・・の間に生まれた息子である<クゥアナー・>パーカーは、コマンチ族の最後の、そして最も偉大な酋長になった。
この部族は、大平原を19世紀の大部分の間、支配下に置いたのだ。・・・
グィンは、<この本を>パーカーの割り当てられた自作農場(homestead)への1836年のコマンチ族の襲撃から始める。
パーカー一族は、イリノイの開拓者達であり、現在のダラス近郊の16,100エーカーで働いていた。
1836年には、彼等はコマンチ族の領域への白人の西方拡大の先頭に立った切っ先を代表しており、コマンチ族にはこれが甚だ気に染まなかったわけだ。・・・
クゥアナーはすぐに大きくなった。・・・」(B)
「・・・クゥアナーは、コマンチ語では「臭い」または「香り」を意味していた。・・・
コマンチ族の戦士達は、何世紀にもわたって女性の捕虜・・インディアン、フランス人、イギリス人、スペイン人、メキシコ人、そして米国人・・をとり、彼女たちとの間にコマンチ族として育てられる子供をつくってきた。
しかし、<それまで、>著名な白人とのハーフのコマンチ族の戦争酋長がいたという記録は残っていない。
マッケンジー(Mackenzie)(後出)がクゥアナーを狩りの対象とし始めた頃には、クゥアナーの母親は、すでに有名になってから長い年月が経っていた。
彼女は、当時インディアンに捕らわれた者の中で最も知られており、ニューヨークとロンドンの応接間で「白いインディアンの女(squaw)」として話題になった。
というのは、彼女は何度もその機会があったにもかかわらず、自分達のところに戻ることを拒否し、そのことにより、すなわち、洗練され、産業化された欧州のキリスト教文化と野蛮で血腥く道徳的に遅れたインディアンの生活様式のどちらかを選べと言われたら、正気の人間なら後者を選ぶようなことはありえない、というインディアンの生活様式に係る欧州中心的な諸仮定のうちの最も基本的なものに挑戦したからだ。
クゥアナーの母親以外にはこんな選択をした者はほとんどいない。・・・」(E)
「・・・クゥアナーが12歳の時に、彼の父親は戦闘で殺され、彼の母親は白人の部隊に捕らわれた。
(彼等は救出したと考えたが、彼女は、<この時を含め、>常に脱出してコマンチ族のところに戻ろうとした。・・・」(B)
(続く)
インディアンの最後の栄光(その2)
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