太田述正コラム#4072(2010.6.15)
<インディアンの最後の栄光(その3)>(2010.10.24公開)
「・・・パーカーによる襲撃は、40年間に及ぶ、テキサス人、米国人、そしてコマンチ族の間の戦争の始まりを劃した。
他の部族で、<白人の>西方拡大にかくも容赦なく抵抗を続けたものはなかった。
1860年代において、コマンチ族と彼等の仲間の旅人達は、実に、<白人達の>辺境を200マイルも押し戻したのだ。・・・」(A)
「・・・コマンチ・インディアンと白人の定住者達との間の米国の西部のコントロールをめぐる40年間の戦闘の中心となったのはクゥアナーだった・・・
コマンチ族の最後にして最も偉大なる酋長となった<が>クゥアナー<だったのだ>・・・
彼等は、植民地時代のスペインのメキシコからの北上行と、フランスのルイジアナからの西方への拡大を押しとどめた。・・・」(D)
「・・・本来、特定の<インディアンの>部族を大規模に壊滅させようとする真の試みがなされたことはなかった。そんな腹は<白人には>なかったのだ。
その全てが変わったのが<1871年>10月3日であり、それは命令の形をとった。
指揮系統を通じて、第4騎兵隊と第11騎兵隊に対し、出撃してコマンチ族を殺せという形でそれはどなって伝えられた。
それは寛容に類するあらゆるものの終わりであり、最終的解決の始まりだったのだ。・・・」(E)
「・・・このようにして、歴史上、ブランコ・キャニオンの戦闘(Battle of Blanco Canyon<。1871年10月10日>)として知られるところとなったものが始まった。
それは同時に、4年間続きコマンチ民族の最終的壊滅へと最高潮に達するところのテキサス西部の高原における血腥い対インディアン戦争の最初の一斉射撃でもあった。・・・」(E)
「・・・1874年<~75年>のレッド・リバー戦争(Red River War<。テキサス・インディアン戦争の最終局面。米国政府対コマンチ族・キオワ族・南シャイアン族・アラパホ族(Comanche, Kiowa, Southern Cheyenne, Arapaho)
http://en.wikipedia.org/wiki/Red_River_War (太田)
>)におけるクゥアナーの偉大なる仇敵はロナルド・スリデル・「悪い拳」・マッケンジー(Ranald Slidell “Bad Hand” Mackenzie<。1840~89年
http://en.wikipedia.org/wiki/Ranald_S._Mackenzie (太田)
>)大佐だった。
彼は、6度負傷した南北戦争の英雄であり、1871年に米第4騎兵隊の指揮をとり、著者が記すところによれば、「コマンチ族をその大平原の砦(fastness)の中で殺すために派遣された」のだ。
この輝かしい、しかし「むつかしい、むら気な、そして容赦のない若い男は、…米国史における最も暴虐的にして効果的なインディアンとの戦闘者だったが、やがて狂気に襲われ、1889年に48歳で亡くなることになる。・・・」(C)。
「 ・・・クゥアナーの戦闘技術には問題はなかったが、<彼が活躍した>時期が問題だった。
彼は、白人達が時代を変える力のあるテクノロジー・・鉄道と連射火器・・を獲得したまさにその頃にたまたま指導者に成り上がったのだった。
鉄道は、貴重なバッファローの獣皮を東部の市場に安価に輸送することができた。
それにより、バッファロー・ビル(<William Frederick “>Buffalo Bill<” Cody。1846~1917年。兵士・バイソン狩猟者・見せ物家
http://en.wikipedia.org/wiki/Buffalo_Bill (太田)
>)のような男が大量の群を殺戮することが商売になるようになった。
1868年から1881年の間に、3100万頭のバッファローが殺戮され、コマンチ族の富と食糧の源泉が破壊された。
他方、速射が可能なコルト輪胴式連発ピストル(revolver)と強力なシャープ.50口径ライフルは、コマンチ族の一時優位にあった武器に対抗できるものだった。
こうして<コマンチ族の>帝国は崩壊する。・・・」(B)
「・・・クゥアナー・パーカーの第二<の人生における>活動は、<以上の>彼の第一<の人生における>活動よりもっと瞠目すべきものがある。
インディアン保護区での生活に引退してから、彼は、自分自身を死を扱う戦士から繁栄した牧場主、そして手強い政治家へと変え、セオドア・ローズベルトの敬意と友情を得た。
彼は、アメリカ原住民教会の設立とそのペイヨーテ<(=米国南西部・メキシコ北部産の球形サボテンであるウバタマから得られる幻覚剤
http://ejje.weblio.jp/content/Peyote (太田)
)>主義・・幻覚的なウバタマ・サボテンを宗教儀式にもちいる・・の実施に指導的役割を演じた。・・・」(B)
3 終わりに代えて
グインは、この物語をもっともらしく完結させていますが、真実はもっと汚辱に満ちたものでした。
インディアンの最後の武力抵抗は、上述のコマンチ族らによるものではなく、スー族(Sioux)の1890年11月~91年1月のThe Pine Ridge Campaign であり、その山場が90年12月29日の第7騎兵隊とのBattle of Wounded Kneeでした。
そして、この戦闘が、Wounded Knee Massacreと呼ばれていることが、その実態を表しています。
この戦闘で、米兵の死者25人に対し、スー族側は、男性84人のほか、実に、女性44人、子供18人が死亡しているのですから・・。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wounded_Knee_Massacre
米連邦統計局が、この1890年にフロンティアが消滅したとし、1893年にターナー(Frederick Jackson Turner)がフロンティアが米国、とりわけ米国の民主主義に与えた影響を論じた論文 “The Significance of the Frontier in American History” を上梓したこととの関連を指摘する人がいるのはもっともです。
すなわち、フロンティアとはまつろわぬインディアンと白人居住地区との境界線以外の何物でもなかったというわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frontier_Thesis
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2
私も同感です。
すなわち、フロンティアとは、人種主義的「北米内」帝国主義の最前線を意味したのです。
まつろわぬインディアンを殲滅し終えた米国は、時を置かず、その矛先を海外に向け始めます。
我々お馴染みの米国の人種主義的「北米外」帝国主義時代はこうして幕を開けたのです。
(完)
インディアンの最後の栄光(その3)
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