太田述正コラム#4078(2010.6.18)
<悪について(その3)>(2010.10.31公開)
 「・・・「かかる政治的社会の敵どもは、肯定的生存そのものを唾棄すべきものとする否定的なもの」を体現している。
 魔女達は、悪・・非物質であり身体的制約から自由で、「生物的な様々な事柄」を拒否し、大志を抱かず、私利私欲を持たず、手段でも目的でもなく、意味がない(no point)もの・・の形象そのものなのだ。
 「彼等は、大釜の周りをぐるぐる回って踊っているだけであり、特定の目的地が念頭にあるわけではないのだ。」・・・
 ・・・悪は、同時に「誇大妄想的な自分自身の過大評価」を伴う。・・・
 ・・・悪の暫定的定義は、人を「無限の魅惑(lure)につられて自分自身の諸限界を超えようと」突き動かす無制約的な人間の大志、というものだ。・・・
 銀行家達の貪欲、人間による自然の蹂躙、及び自然的諸制約に適応しようとするより変形し超克しようとする厚かましき人間の傲慢さ、といった形の人間の私利私欲は、実際、今日、広く悪口の対象となってきた。・・・
 <しかし、悪においては、こういった>私利私欲すら脇に置かれる・・・。
 すなわち、真の悪は、甚だしく利欲抜きであって、極めて無意味であるというわけであり、他方、大部分の事柄にはその背後に何らかの形の理由があることから、悪などというものは、実際には極めて希で例外的な代物である、ということになる。
 <ただし、>ホロコーストこそ、その例外たる悪なのかもしれない・・・
 <結局、>イーグルトンにとっては、我々が悪と呼ぶ大部分のものは現実には(単に)邪悪なだけなのだ。
 ちなみに、イーグルトンによれば、<悪ではないところの、>制度的かつ体系的邪悪さというものがある。
 そのことが、<悪が希であるというのに、>ヘーゲルが述べたように人間の歴史のかくも多くが「殺戮法廷(slaughter bench)」であることを説明すると同時に、「大部分の暴力と非正義は個々人の悪しき性癖の帰結ではなく物質的諸力の帰結である」ことから、<かかる物質的諸力を何とかすることで、暴力と非正義をなくす方向へと>方針転換することが可能ではないかという点で、若干は人間性について、望みを我々に与えてくれる、というのだ。・・・」(I)
 (3)イーグルトンへの批判
 「・・・生まれた時からローマ・カトリック信徒であっただけでなく、歴としたマルクス主義者となった・・・イーグルトンは、この二つのどちらの思想体系に対しても異端であるのかもしれないけれど、それにもかかわらず、この二つのイデオロギーが合体(totalize)したものが彼が悪を追求する際、その鍵を提供している。・・・
 ・・・事実はと言えば、悪というものは、純粋に歴史的文脈(sense)の中において存在しているのだ。
 キリスト教時代より以前の諸宗教の中に悪が出てきた試しはない。
 東方の宗教にも、プラトンにも、そして聖書時代のユダヤ教にも・・。
 悪は、聖パウロが描写したイエスの教えを通してこの世に持ち込まれたのであり、それは、恐らくは、部分的には、キリスト教徒達が常に懸命に否認してきた・・かかる異端者を杭にくくりつけて火で燃やすというようなことまでした・・ところのマニ教からの影響のせいなのだろう。
 換言すれば、・・イーグルトンのために論じればこのことを彼は巧みに言い抜けることはしていないが、・・キリスト教の神が存在しなければ、悪もまた存在しないのだ。・・・」(B)
→そもそも、悪などという観念は、キリスト教ないしはその系譜の思想の中にしか存在しないのでは、という指摘です。(太田)
 「・・・イーグルトンは、20世紀の政治的大量殺害者達を取り扱う際に、マルクス主義者の観点から取り扱うが、その結果は予想できるものだ。
 すなわち、スターリンと毛沢東は、「道徳的限界(pale)を超えている」ことを認めつつも、彼は、「尊敬すべきと自分等が見た目的のために彼等は殺害行為を行ったのであって、彼等はそれなりの理由があって殺戮行為を行ったのだ」と力説する。
 これらとは対照的に、ヒットラーに対しては、彼は完全に冷笑的に、ホロコーストは、それをやることの全くもっての愉楽はさておき、理由なしに行われたジェノサイドである、と見ているようだ。
 これはおかしい。
 第一に、第一次的証言の多くから、我々は、スターリンと毛沢東が骨の髄まで冷笑的であったことを知っている。彼等のふるまいに関して「尊敬すべき」という言葉を使うことすら、彼等の問題点を看過するものだ。
 ヒットラーによるユダヤ人を除去するためのプログラムが、いわれのない、単なる血への渇望であるなどという奇っ怪な観念に関しては、彼が文学の教授であって歴史学の教授ではないということからかろうじてイーグルトンを赦すことができるというものだ。
 というのも、ナチスは、ユダヤ人種がドイツ民族にとって恒久的かつ死ぬほどの脅威であると確信しており、そのことについて、忌まわしいほど詳細に説明していたからだ。・・・
→ヒットラーのやったこともスターリン/毛沢東がやったことも、イーグルトンの悪の定義に厳密に照らせば、邪悪な行為に過ぎないことになってしまうのではないか、という指摘です。(太田)
 ・・・<そもそも、イーグルトンの考え方は、>危険なほど、狂気と悪とは密接不可分であるとの観念に近づいている。
 実際、イーグルトン自身が指摘しているように、そうなると、悪い人々は、「自分達が何をやっているかに無知であって、しかるがゆえに道徳的には無辜である」ことを示唆することになってしまう。・・・」(F)
→イーグルトンのように悪を定義すると、悪人には責任能力がないから罪を問えないということになりかねない、という指摘です。(太田)
(続く)