太田述正コラム#4080(2010.6.19)
<悪について(その4)>(2010.11.1公開)
 「・・・しかし、ヒットラーの興隆は、仮に第一次世界大戦の勝者達がドイツに対して、あれほども経済的に懲罰的でなかったとしてら、ありえなかったのではなかろうか。
 この教訓に学び、彼等は第二次世界大戦後はうまくやった。・・・」(C)
→ヒットラーのやった悪行については、英仏等も責任の一半は免れないのではないか、とイーグルトンを批判しているわけです。(太田)
 「・・・もっとむつかしいケースがある。
 もし我々がイーグルトン氏の主張を、彼が言及しなかった人物、例えば、9.11同時多発テロの殺人者モハメッド・アッタ(Mohammed Atta)のような、彼の犠牲者達を殺戮しただけでなく自分自身も殺した人物に適用するとどうなるかだ。・・・
 ・・・人間性に照らして身の毛のよだつようなことであると認識していることが自分自身に起きることを願いつつ、アッタは彼自身を人間<として許される>領域の埒外に置いた。
 そのことにより、彼は単に憎むべき犯罪者ではなく、骨の髄まで震え上がるような悪人になったのだ。・・・」(H)
→イスラム原理主義者に甘いイーグルトンに対して嫌みを言っているわけです。(太田)
 「<イーグルトンの議論を聞いていると、>環境決定論を投げ捨てたかと思ったら、今度はそれを性格(character)決定論で置き換えた感がある。
 人間をして絶句するような行いに駆り立てさせるものは、社会的諸条件ではなく性格だというのだ。・・・
 <映画『エクソシスト』の子供の中にいる悪魔は彼女自身の真の本質・・その場合、我々は彼女を恐れ厭わなければならない・・なのか、それとも外からの(alien)侵入者(invader)・・その場合、我々は彼女を哀れだと思わなければならない・・なのか。
 彼女は、単に、この<悪の>力から守るよすがなき、<悪の>操り人形なのか、それとも彼女の人となり自身から直接飛び出してきたものなのか。
 それとも、悪は自己疎外の事例なのか。
 つまり、このおぞましい力は彼女であり同時に彼女ではないのだろうか。
 恐らくは、それは一種の第五列なのであり、ただし、それが彼女のアイデンティティーの核心そのものに取り憑いている(installed)<第五列な>のだ。
 その場合、アリストテレスが悲劇を鑑賞する時にはそうでなければならないと考えたように、我々は哀れと思うと同時に恐れなければならないのだろう。・・・
→イーグルトンが悪人と区別するところの邪悪な人についても、これを哀れに見るだけでなく、悪人同様、恐れなければならないのではないかと指摘することで、悪人と邪悪な人とを区別する考え方そのものに疑問符を投げかけているのです。(太田)
 <イーグルトンが主張するように、>理解することがより大きな寛容へと導くと考えることもまた奇妙な話だ。
 実際のところ、その反対こそ往々にして正しいのだ。
 例えば、第一次世界大戦の無益な殺戮について学べば学ぶほど、そんなことは正当化されえないとより感じるようになる。・・・
 人間の行為が説明がつく場合にはそれは悪たり得ないのに対し、何ら説明ができないという場合には悪となる<などというイーグルトンの主張はおかしい。>・・・
→哀れに見てきた対象(邪悪な行為)についても、その対象を深く知れば知るほど、恐れ(怒り)の感情がわき上がってくるものであり、結局、イーグルトンの言う邪悪な行為の多くは、実は悪行であるということになるのではないか、と指摘しているわけです。(太田)
 ・・・「悪」は、その反対である善がそうであるように、「自分の行為に責任を負える」ことであると言い換えることができる<とイーグルトンは主張しているように見える>。
 <実際、>善であること(goodness)は、往々にして、社会的条件付けから自由であるとも考えられてきた<ところ、それは悪についてもあてはまるのではなかろうか。>・・・
 近代の哲学者の中で最も偉大なイマヌエル・カントもまさにかかる見解を抱いていた。・・・」(J)
→自分が悪行を行うにせよ善行を行うにせよ、どうしてそんなことをしたのかを説明することによって、それぞれ、責任を回避しようとしたり、褒めてもらおうとしたりするようなことはするな、という箴言ですね。(太田)
 (4)その他
 「・・・「悪魔はフランス人であると信じるに足る理由がある。」
 イーグルトンは、フランスのマルクス主義者たる知識人の最古参のジャン・ポール・サルトルに対してさえ、「他の連中こそ地獄だ」というサルトルの悪名高い一言に砲火を集中することで格別の軽侮を示す。
 イーグルトンは、そんなのは間違っていると言う。
 その正反対であると・・。
 「地獄は、いつでも、最も面白くない(dreary)、筆舌に尽くせぬ単調なご同朋のうちの最たるもの、つまり、自分自身について回るものなのだ。・・・」(A)
→カトリック信徒あがりのマルクス主義者という、がちがちの欧州的人間たるイーグルトンがフランスの知識人を虚仮にするとは、呆れます。(太田)
 「・・・フランスの数学者にしてカトリック哲学者のパスカル(Pascal)は、「人間は天使でも畜生(brute)でもないのであって、不幸なことに、天使を演じる者が畜生も演じる、と言っている。・・・」(I)
→書評子の一人が、フランスの知識人にだっていかれてないのもいるよ、と注意を喚起しているわけです。(太田)
 「・・・最近の高級霊長目に関する研究が示すところによれば、種が自己意識<を抱く存在>に近づけば近づくほど、より殺害行為を犯し易くなる。
 我々人間同様、高級な類人猿は、同類を、純粋でも単純でもない憎しみから、あるいは単に面白いから殺害行為を行う。・・・」(G)
→私が以前指摘したように、人間は人間を殺害するのが当たり前であるところ、殺害行為が頻発するようでは社会が成り立たないので、刑罰でもって大部分の殺害行為を禁じている、というだけのことだ、と考えた方がよさそうです。(太田)
 「最近の世論調査によると、原罪を信じる割合が一番高いのは北アイルランドの91%であり、一番低いのはデンマークの29%だ。・・・」(J)
→ミソは、この点ではイギリスが北アイルランドとデンマークの間に位置しているようだということであり、これは、イギリスが、欧州に属する北アイルランドのように(プロテスタントであれカトリックであれ)キリスト教原理主義者の巣窟でもなければ、同じく欧州に属するデンマークのように無神論者の巣窟でもないところの、ごく当たり前の国たるアングロサクソンの国であることから当然なのです。(太田)
3 終わりに
 欧州人的イギリス人が、欧州人が好むようなテーマをとりあげて本を書いたというので、イギリス人を中心とする書評子達が、よってたかってイーグルトンをおちょくっている、という雰囲気を感じ取っていただけたでしょうか。
 書評だけでは本の内容について断片的なことしか分からないところ、テーマがこむつかしいだけに、正確にイーグルトンの本とこの本をめぐる論議をご紹介できたかどうか、いささか忸怩たるものがあるのですが、あしからず。
 最後に、本シリーズでは引用しませんでしたが、悪をテーマにしているところのその他の最近上梓された本をイーグルトンの本とともに書評の対象とした
http://www.ft.com/cms/s/2/f70d8fde-6f64-11df-9f43-00144feabdc0.html
(6月6日アクセス)と
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/on-evil-by-terry-eagletonbr-the-uses-of-pessimism-by-roger-scruton-1990626.html
(6月15日アクセス)を、関心ある方々のためにあげておきましょう。
(完)