太田述正コラム#4092(2010.6.25)
<米帝国主義マークIIの構築者(その2)>(2010.11.3公開)
 「・・・ローズベルトは、早くも1937年のシカゴでの「隔離(Quarantine)」演説において、平和の諸徳を賞揚し戦争の悲惨さを語るとともに、彼の隠喩の才でもってナチスの欧州における侵略が北米の岸に到達することがありうると警告することで、<米国の>世論に戦争への心の準備をさせようとした。
 「身体の病が伝染し始めた時、コミュニティーはこの病が広まることからコミュニティーの健康を守るために患者達を隔離することを承認し、隔離に協力する<ものだ>」と。
 ローズベルトと<ヘンリー・>ルース(Henry Luce<。1898~1967年。米国で強い影響力を持った出版者
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Luce
>)は、どちらも、ヒットラーを打ち負かす必要があると考えただけでなく、当時の米国人一般が欧州の諸内戦に<米国が>介入することに消極的であったにもかかわらず、ドイツ崩壊の結果として生じる空白を米国が埋めなければならないとも考えていた。
 フランスが倒れた時、<米国では>臨時の1年間の徴兵制が施行され、アジアと欧州での侵略が1941年に悪化すると、<この徴兵制>は米下院によってわずか1票差で延長された。
 それは、ルースが、彼の白眉たる論考、「米国の世紀(The American Century)」を上梓したのと同じ年のことだ。
 その中で、彼は、「我々は欧米の文明の偉大な諸原則すべての承継者だ。…
 今や、そこから(米国の)諸理念が世界全体に広まるところの発電所に我々がなるべき時代になったのだ」と記した。
 ローズベルトのヴィジョンも同じであり、彼の政権は、この二人が共有していたところの目的を達成するための戦後の諸制度を構築するスケッチを描くのに追われていた。
 このように世界をほとんどおなじように見ていた二人の男が、互いに嫌悪感を抱き合っていたというのは奇妙な話だ。・・・
 いずれにせよ、米国の世紀を確保するためのインフラであるところの、国連、マーシャルプラン、NATO、そしてソ連の大志の封じ込め、は、ルースの思い描いた反共の観点からは十分ではなかった。
 彼のこの気持ちは、彼の愛した支那を<共産党によって>喪失したことと、彼の個人崇拝の対象(personal icon)であった蒋介石の敗北とによって、燃え上がったものだろう。・・・」(D)
 (3)アイゼンハワー
 「・・・アイゼンハワーは、連合国のナチスドイツに対する作戦を指揮した人物だが、ソ連に対して冷戦をしかけ、米国の力の橋頭堡を全球的に確立したというのに、<もっぱら、>大統領を辞任するにあたり、無分別な国防支出に対する警告を発したことで好意的評価がされている。・・・」(B)
 「・・・冷戦は欧州における第二次世界大戦の尾っぽのような付属物(tailpiece)であり、しかるがゆえに、アイゼンハワーの労苦(labors)は自然な成り行きとしてローズベルトの労苦を受け継いだものなのだ。・・・
→断じて否です。
 冷戦は、東アジアにおいて戦前の日本が一貫してやってきたことを米国が遅ればせながら受け継ぎ、それを全世界規模で行ったものにほかなりません。(太田)
 アイゼンハワーは平和の言葉を語ったが、彼は他方で、1954年にはグアテマラのクーデターを支援し、その前年にはイランにおける皇帝の復帰を支援したし、米国の中東における国益を堀崩すものであったので英仏及びイスラエルによる1956年のスエズ運河の占拠に反対した。・・・」(A)
 
 「・・・アイクが、ソ連の東欧からの「巻き返し(rolling back)」を望んだところの、ルースと国務長官のジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)の助言を拒否し、封じ込め政策を採用したのは、そんなことをすれば大三次世界大戦が勃発する火種になるかもしれないから、ではなかった。・・・
 アイクは、軍部と情報諸期間から・・・三つのチームをつくり、三つの政策選択肢を擁護させた。
 チームリーダー達は、ホワイトハウスでアイクにそれぞれの考え方を説明した。
 その上で、初めて、彼は、情け容赦なき非軍事的手段でもってソ連を牽制し続ける道をとることを選択したのだ。・・・」(D)
→アイゼンハワーは、全く無駄なことをしたものです。
 そんなことは、戦前の日本が、軍部内でのソ連の「巻き返し」を望んだ皇道派と「封じ込め」を望んだ統制派の間の議論ないし政争を経て後者に軍配をあげる形で決着をつけていた話だからです。(太田)
(続く)