太田述正コラム#4108(2010.7.3)
<原爆論争(その2)>(2010.11.8公開)
 「・・・他の軍人将校達で原爆投下の必要性に同意しなかった者に、ダグラス・マッカーサー陸軍元帥、ウィリアム・D・リーヒ(William D. Leahy)海軍元帥(大統領の首席補佐官)、カーター・クラーク(Carter Clarke)陸軍准将(日本の電文を米国の役人達のために解読して提供した軍事諜報将校)、チェスター・W・ニミッツ海軍元帥(太平洋艦隊司令長官)等がいる。
 「日本人達は、実際のところ、既に和平を求めていた。
 原爆は、純粋に軍事的観点からは、日本を敗北させることに決定的な役割を果たさなかった。」(・・・ニミッツ・・・)
 「広島と長崎での[原爆の]使用は、我々の日本に対する戦争で不可欠な助けとはならなかった。
 効果的な海上封鎖と在来兵器による成功裏の爆撃…によって、日本人達は既に敗北しており降伏する用意があった。
 核戦略の将来における致死的可能性には慄然とさせるものがある。
 私自身の気持ちは、我々がそれを最初に使用したことで、我々は暗黒時代の野蛮人と共通の倫理的水準を採用してしまったというものだ。
 私は、戦争をこんなやり方で行うよう教わってはいないし、戦争は女性達や子供達を殲滅することで勝利を収めることはできない、と思う。」(・・・リーヒ・・・)
 歴史学者のツヨシ・ハセガワは、研究を通じ、原爆投下それ自体は、日本が屈した最大の理由でさえないという結論を下した。
 彼は、<日本の>最高戦争指導会議が支那において<日本軍が>当時のソ連から喫した損害の程度を把握していなかったにもかかわらず、満州での迅速かつ圧倒的なソ連の勝利が日本の1945年8月15日の降伏を強いたと強く主張する。・・・
 
 歴史学者のジェームス・J・ワインガルトナー(James J. Weingartner)は、<しばしば見られたところの、>米国人による日本人の戦死者の死体の損壊(mutilation)と原爆投下との間に結びつきがあると見ている。
 ワインガルトナーによれば、どちらも、部分的には敵の非人間化の結果なのだ。
 「日本人が人間以下の存在であるという広く流布した観念が何十万人もの死をもたらした諸決定を正当化する感情的文脈を構成した」と。
 長崎への原爆投下の2日後、トルーマン<大統領>は、「彼等が理解するように見える唯一の言語は我々が彼等を爆撃するために用いているところのものだ。獣に対処しなければならない時は、彼を獣のように扱わなければならない。これは非常に遺憾なことだが、にもかかわらず真実だ」と語った。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Debate_over_the_atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki#cite_note-asada-105 同上
3 ハセガワ篇
 今度は、ハセガワ自身の言を紹介しましょう。
 「・・・もう一つ重要な点は、日本の陸軍は、陸軍大臣の阿南惟幾を含め、ソ連の侵攻の後でさえ、モスクワと交渉してソ連の中立を回復しソ連を米英から切り離すことが可能で得策であるという、信じがたいほど非現実的な希望にしがみついていたことだ。
 これが、日本政府がソ連に対してついに宣戦布告をしなかった理由だ。・・・
 私は、トルーマン政権内が、日本に天皇制を維持することを認めるべく<対日>無条件降伏<要求>を修正すべきかどうかという問題で2派に別れていたと主張している。
 無条件降伏を修正すべきであるという圧力は、とりわけ、最初はグルー(Grew)<国務次官>から、次いでスティムソン<陸軍長官>から来たが、最終的にトルーマン<大統領>とバーンズ(James F. Byrnes<。1882~1972年)国務長官
http://en.wikipedia.org/wiki/James_F._Byrnes (太田)
>)は、彼等のこの推奨を拒否した。
 私は、このトルーマンとバーンズによってなされた意思決定は、彼等の原爆を使用するとの意図と密接に結びついていると主張している。・・・
 第一に、関東軍の将校達は、原爆投下とソ連の参戦の双方を2つの重要な出来事として言及したけれど、・・・彼等は、日本の降伏にとって、ソ連の参戦が原爆投下よりも重要な理由であったと考えた。
 尋問された上村<幹男陸軍中>将<(1892~1946年(シベリア抑留中自決)。終戦時は満州の第4軍司令官>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%B9%B9%E7%94%B7 (太田)
は、・・・このことを明確に示したが、喜多誠一<陸軍大>将<(1886~1947年(シベリア抑留中病没)。終戦時は満州の第一方面軍司令官
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E8%AA%A0%E4%B8%80 (太田)
の声明さえ、彼がソ連の参戦(天皇が決定した)の方を原爆投下(天皇は日本が戦闘を継続するのが困難になったと考えた)よりも重視していたことを示している。
 第二に、秦彦三郎<陸軍中>将<(1890~1959年。終戦時は関東軍総参謀長>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%BD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E (太田)
は尋問で、「我々は、この年にソ連が突然日本に宣戦するとは思っていなかった。
 だから、日本とソ連との間での軍事行動が開始されたことが、日本の全国民に甚大なる影響を与えたことは疑いない。・・・」と答えている。・・・」
http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/PDF/Hasegawa-response.pdf
(続く)