太田述正コラム#4304(2010.10.9)
<2010.10.9オフ会次第>(2010.11.9公開)
1 始めに
前日まで、どうしてこんなに集まりが悪いんだと思っていたら、3連休の頭でしたね。
しかし、蓋を開けてみたら、私を除き、11名が参加(うち1名はスカイプ参加)され、しかも、1次会(講演会)に11名、2次会に9名、3次会にも9名が参加、というわけで、結果的に盛会でした。
2 「講演」
いずれ、映像がアップされるのでご覧いただけばいいわけですが、原稿に相当アドリブを入れて熱っぽく話をし、終わってみたら、話している間、一度も時計を見なかったのに、ちょうど所定の約1時間が経過していたのでびっくりしました。
3 1~3次会での議論の一部の要旨
A:私は、以前から歴史について様々な知識は持っていたが、それらは脈絡のない断片的な知識という感じだった。それが、太田コラムを読んで、相互に関連したものとして理解できるようになった。
O(太田。以下同じ):私自身もちょっと違った意味で同様に感じている。例えば、自分がどうして、日本の安全保障や日本の近現代史と直接関係のない、アングロサクソン論ないしアングロサクソン・欧州せめぎあい論に強い関心があるのか、自分自身、不思議な思いがしていたが、次第にその意味というか意義が分かってきた。潜在意識において何となく分かっていたことが、次第に明確な形で顕在化してきたという感じだ。
A:最近の中国の動きを見ると、いかに戦前の日本人の、中国観を含む国際認識が正しかったのかが分かる。
O:中共と言えば、自分はもともと、司法への国民参加の重要性について、普通の人より認識していたつもりだが、それがいかに重要かが、尖閣問題(や小沢問題)を通じて身に染みた。
B:どうして、(狭義の)グレート・ゲームの後、英国の国家戦略においてロシアのウェートが下がったのか。
O:ドイツの急速な台頭のせいだろう。ヴィルヘルム2世は異常な男で大軍拡をやったが、ヴィクトリア女王の不肖の孫だ。彼は、女王の臨終の時も、一人手を握りしめ続けた、一番のおばあちゃん子だったけどね。あのできの悪さは、彼が育ったドイツという環境が育んだものだろう。そのせいで、英国は、(世界帝国であったことから、ロシアの脅威のことをいの一番に考え続けなければいけなかったというのに、)欧州からの脅威に心安らかな日が1日もなかった、16世紀のエリザベス女王の時代に先祖返りしちゃったんだな。
既に大英帝国が傾きかけてきたという自覚があったことがこれに拍車をかけた。
そのため、英国は、第一次世界大戦で、しゃかりきになってドイツを叩きつぶそうとした。
第二次世界大戦の時よりはるかに多数の英国人の死傷者を出してまでもね。
その結果は、第二次世界大戦の種を蒔いただけだった。
だもんだから、英国が音頭を取ったと言って良いシベリア出兵も極めて中途半端な形で始まり、尻切れトンボで終わってしまった。
つまり、英国は第一次世界大戦の頃からおかしくなり始め、第二次世界大戦の頃、そのおかしさが頂点に達したと思う。
C:統制派、皇道派についての太田さんの説明には感心した。
O:こういっちゃ何だが、軍人って単純な物の考え方をするものなのだ。非軍人も交えて策定された当時の日本の国家戦略を、彼等はバカ正直に遂行しようとしただけだ。つまり、対露安保という大枠の中で、対露冷戦か熱戦か、そのためには支那はどうすべきか、を考えただけなのだ。
英国の駐日武官だったピゴットも、やはり軍人らしい単純な物の考え方をする人であり、1949年に出版された彼の回顧録は、全編これ日本礼賛といった感じであり、英国で顰蹙を買った。
他方、昨日の未公開コラム(#4302)に、「<1946年に出版されたクレイギー元駐日英国大使による>回顧録・・・は、・・・クレイギーが、帰国の翌年の1942年に書き、比較的最近まで公開されなかった部内用報告書とはトーンがかなり異なって<おり>、極東裁判史観とまではいかなくても、戦前の日本に関する悪玉、善玉論に拠った記述ぶりになっていました。」と記したところだが、TPOに応じてプレゼンテーションの内容を書き分ける、クレイギーの老獪さがうかがえる。(その結果、私を含む日本人がクレイギーに注目するのがかくも遅れてしまったわけだ。)
もっとも、そのクレイギーにして、報告書に自分のホンネに近い思いを盛り込みすぎて、爾後完全に干されてしまうことになってしまったわけだが・・。
D:どうして、英国では、大英帝国を瓦解させたとしてチャーチルを批判する人が少ないのだろうか。
O:そのような批判をしている英国人をコラムでもとりあげているが、数が少ないことはおっしゃるとおりだ。それだけ、大英帝国の瓦解が英国人にとって大きなトラウマになっているということだろう。
それは分からないでもない。先の大戦で人的物的被害は日本よりもはるかに小さかったが、失った帝国の大きさでは、英国は日本と比較して、比べようがないほど大きい。
だから、それがチャーチルのせいだとか、それと裏腹の関係だが、日本のせいだとか、彼等の大部分は、どうしても認めたくないのだろう。
むしろ、先の大戦・・ただし対ドイツ戦・・勝利の直後の1945年に10年ぶりに実施された英国の総選挙で、当時まだ形の上では大英帝国は瓦解していなかったにもかかわらず、それを予感してか、チャーチルを首相の座から引きずりおろした、当時の英国民の方が、まともだったと言えよう。
D:サッチャー時代、英国経済のパーフォーマンスは、さして良くならなかったが、ブレア労働党政権になってから、ようやく顕著に上向きになった、という説が有力だが太田さんの意見は?
O:米国留学帰りに日本に帰る際、東回りで最初にロンドンに降り立ったが、第三世界に来たかというくらい、英国は零落した感じだった。
それが、サッチャー政権になって、すっかりムードが変わったのではないか。
特に、フォークランド戦争に大勝利を収めたことが大きい。
第二次世界大戦後、大英帝国が瓦解し、かつての小さな島国に戻った英国が、それに加えて経済低迷を続け、英国民は完全に自信喪失に陥ってしまっていた。
国民の意識が経済に及ぼす影響は大きいと私は思っている。
英国民の意識が一変したことによって、サッチャー時代に英国経済は上向きへと転じ、それが労働党政権下で花開いた、というのが私の認識だ。
E:戦争はカネ儲けにつながらないばかりか莫大なカネがかかるというのに、どうしてそんな引き合わないことを人間はやるのか。
O:もともと、イギリス人には、ゲルマン譲りの、戦争は儲けるためにやる、という発想があった。エリザベス1世の時代になっても、例えばドレイクなんてのは、「敵」スペインの船を襲っては積み荷を強奪し、英国の安全保障に資するとともに、自分自身及び国庫を潤したものだ。安全保障というのは、自らの価値観と生活様式を守るということだが、次第にカネ儲けよりも安全保障の方のウェートが高まっていき、ついにはカネ儲けの部分がゼロになって現在に至っている、ということだ。
D:太田さんは、日本型政治経済体制を、政治抜きで中共が採用したと指摘しているが、エージェンシー関係の重層構造に関し、中共は日本に比べてはるかに層の数が少ないのではないか。
O:もともと、日本のように人々が互いの価値観等を分かり合っている社会は希だ。
そういう社会でないと、(エージェンシーコストが高く付きすぎて)日本型経済体制は機能しない。
そこで、中共では、共産党の中で、互いの価値観等が分かり合える、というより、価値観等が近似するように人々を培養しているところ、彼等を地方政府や大企業に送り込む形で日本型経済体制もどきを構築したと言えよう。あくまで、日本型経済体制「もどき」だということだ。
さて、層の数が少ないのではないかとおっしゃるが、人口が日本の10倍で国土面積もでかい中共では、地方政府の層の数は、日本より多いのではないか。
だから、一概に層の数が日本より少ないとは言えないように思う。
いずれにせよ、この類の私の説は、経済専門家がとりくんで検証するなり発展させるなりさせて欲しい。
2010.10.9オフ会次第
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