太田述正コラム#4112(2010.7.5)
<原爆論争(その4)>(2010.11.11公開)
4 終わりに
 ハセガワの、一、トルーマンは、ソ連の牽制のために、日本に原爆投下をして米国の軍事力をソ連に見せつけたかったので、ポツダム宣言で日本の無条件降伏を求め、日本の降伏を遅らせる一方、そのソ連の牽制のため、ソ連の参戦より先に、そして少なくともソ連が参戦した以降に速やかに日本を降伏させたかったので、原爆投下が日本に無条件降伏を決意させるだろうと信じ、原爆投下にこだわった、二、しかし、皮肉なことに、日本が無条件降伏した最大の要因は、原爆投下ではなく、2回の原爆投下の間になされたソ連の対日参戦だった、という2つの主張のもっともらしさを、資料篇とハセガワ-麻田ら/バーンスタイン論争から感じ取っていただけたことと思います。
 2つ留保を付けておきます。
 ハセガワ-麻田ら/バーンスタイン論争をもっぱらハセガワのそれぞれへの反論文に拠って紹介したので、この論争の客観的公平な紹介になっていない虞れがあるということと、満州で侵攻してきたソ連軍と戦った将官達の証言(ロシア語文献)を日本降伏・ソ連対日参戦論の裏付けとして用いた点についてはハセガワに余り説得力がないことです。
 彼等にとって原爆投下は伝聞に過ぎなかったのに対し、ソ連の対日参戦は、自らが実体験したことですからね。
 私なら、そもそも、どうして関東軍が南満州にいたのか、どうして日本は満州国をつくったのか、を当時の日本の政治家や軍人に語らせることを選んだでしょうね。
 前にも申し上げたように、ハセガワはあえてそのようなやり方を封殺したのだと私は推察するのです。
 なぜなら、私思うに、それをやっていたならば、戦前における米国の対日政策全面否定を示唆することになるからであり、ハセガワは、日本人だからこそ、そのような史観を提示したという目で見られ、’Racing the Enemy’ が米国の主要紙の書評において好意的評価を受けたり、2006年にRobert Ferrell Award from the Society for Historians of American Foreisn Relations を授与
http://www.history.ucsb.edu/people/person.php?account_id=35
されたりするようなことにはならなかった可能性を排除できないからです。
5 付録
 (1)コラム#4105でΒωωΒサンによって紹介されたアラン・ミレットによる論考中に、以下のような面白い箇所がありました。
 「・・・1937 年以降は、親中派が世論を席巻した。親中派の代表格はパール・バックや�拔介石夫人であり、一方の親日派の代表格は、ジョセフ・グルーであった。
 さらに、アメリカ人宣教師たちは中国びいきであり、ヘンリー・ルースの築き上げたメディア帝国を通じ、世論形成に大きな影響を与えた。
 「アジア第一主義」連合は、政党―つまり共和党―と結びついており、ダグラス・マッカーサー元帥も、その一員であった。
 こうした政策エリートたちと、層が幅広い、復讐心に燃えた伝統的な白人アメリカ国民の心を一つにしたのは真珠湾攻撃であった。・・・
→このくだり、かねてより宋美齢とパール・バック、そして在支米国人宣教師達を強く批判してきた私として、心強い援軍を得た思いがします。(太田)
 <西太平洋においては、>アメリカ軍は独自の基地システムと停泊地を築く必要にせまられた。通常は飛行場と併せて作られるものであり、これには、重機を備えた設営工兵大隊が必要であった。地上戦闘部隊の人員だけをみても、太平洋戦線に配置された各師団は、ヨーロッパ地域に配備されていた師団よりもさらに16,000 人の支援要員が師団ごとに必要であった。・・・
→このような敵と戦わざるを得なかった帝国陸海軍のことを思うだけでも胸が痛みますねえ。(太田)

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_05.pdf
 (2)Michael D. Gordin ‘Red Cloud at Dawn: Truman, Stalin, and the End of the Atomic Monopoly’ へのハセガワの評論をご紹介しましょう。
 「・・・私の見解では、冷戦は、米ソ双方が交渉によっては何も得られず、かつ、両者が相容れない2つの陣営へと分かれている、と結論づけて初めて始まった。
 <しかし、>このような結論は、1947年までには下されなかった。・・・
 1947年初頭、つまり、<ソ連が初めて、>・・・カザフスタンのセミパラティンスク21において1949年8月29日に・・・ジョー1(Joe 1)<の核爆発>を実施するよりはるかに以前に、米空軍は、戦争の初期段階で核爆弾を効果的に使用することが可能であると信じ始めた。
 1947年の中頃には、<米国の>全軍事機関が半月(Half-Moon)という暗号名がつけられた統合戦争計画を策定し始めた。
 この計画に拠れば、ソ連の都市産業地区は「最高優先順位標的システム」を構成しており、それらが破壊されれば、「ソ連の産業及び統制中枢を大きく損傷することからソ連の軍隊の攻撃的かつ防衛的な力は劇的に減殺する」というのだ。
 この、主として核爆弾による戦略的攻撃は、2,800万人が居住する70の標的地域に対して30日間続けられることになっていた。
 そして、これら住民のうち10%が殺害され、更に15%が負傷すると推計されていた・・・。・・・
 ・・・ハーモン(Harmon)空軍中将が統括した研究の報告書に拠れば、仮に133の核爆弾がすべて標的上で爆発したとしても、「ソ連の指導部は致命的に弱体化することはない」としている。
 この結論は、核の在庫の顕著な増加の引き金となり、在庫の増加は、今度は標的の、都市センターから特定の軍事標的、換言すれば、対価値(counter-value)から対兵力(counter-force)、への変化をもたらした。・・・
 ・・・<すなわち、>米国は、ソ連がジョー1を爆発させるより前に核行使政策を展開していたわけだ。・・・
 心中では、スターリンは、核爆弾の軍事的脅威を極めて深刻に受け止めていた、というより、それに恐れおののいていたとさえ言えよう。・・・
 このことが、なにゆえにスターリンが、ベルリン封鎖や朝鮮戦争において、ソ連を米国との直接的な軍事紛争におびき寄せるものを避けようとしたのはどうしてかを説明する。・・・」
http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/PDF/Roundtable-XI-28.pdf
(7月4日アクセス)
→冷戦に関する私の主張は、ご承知のように、ソ連と自由民主主義陣営の冷戦は、シベリア出兵以降、既に東アジアにおいて、日本が全自由民主主義陣営の先鞭を切って開始していたのであって、1938年の張鼓峰事件、1939年のノモンハン事件はあっても本格的熱戦に至らず継続していたところ、ソ連の対日参戦によって中断し、それがやがて日本に代わって米国によって全世界的に再開されることになった、というものです。
 米国による冷戦再開をいつと見るかについてのハセガワの1947年説は参考になりますが、現在のところ、私としては、核実験の成功を受け、トルーマンがソ連を原爆で牽制しようとした1945年7月に再開のきざしが見え、1948年6月のベルリン封鎖・・ソ連の非軍事的手段による自由民主主義陣営侵略の試み・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%B0%81%E9%8E%96
をもって事実上再開し、1950年6月の朝鮮戦争勃発・・ソ連の傀儡による対自由民主主義陣営・代理戦争の勃発・・をもって本格的に再開した、と見ているところです。(太田)
(続く)