太田述正コラム#4120(2010.7.9)
<原爆論争(その7)>(2010.11.14公開)
コンラッド・クレーン「米国による日本及び朝鮮半島南部の占領-比較の観点から-」の抜粋紹介
「・・・<米陸軍の>軍政学校における多くの議論において、「静かな朝の国」<(朝鮮)>が対象とされたことはなかった。そして陸軍の方針においては、軍政学校における朝鮮語の学習を禁止さえしていたのである。ある軍政関係者のひとりは、訓練中の12ヵ月間で3つのプログラムを受講したが、朝鮮についてはたった1時間の講義があっただけだと振り返っている。占領軍は、自らの行動や活動の基礎となる、朝鮮に関する研究や調査を行う機関を持っていなかった。・・・
朝鮮半島に上陸した<米>第24軍団・・・<においては、>事前の計画は立てられておらず、当局の指示もなかった。さらに、司令官から下級の兵卒まで、占領軍のなかには占領者としての訓練を受けた者がひとりもおらず、ましてや、言語や文化などがまったくの謎でしかなかった国の統治責任者たりうる資格を有している者などいなかったのである。
米国務省<も>・・・日本向けのような公式の政策ガイドラインが策定されていたわけではなかった。戦略諜報局も、マッカーサー司令官の情報部も、南朝鮮にそれほどの注意を払っていなかったのである。
当初は南朝鮮もマッカーサーの管轄下に置かれていたが、関心は次第に日本へ傾いていった。マッカーサーの月次SCAP報告書は、初期のころには日本と南朝鮮の双方に言及していたが、1946年には完全に、日本のみに焦点があてられるようになっていた。・・・
米国との協力において、日本人が持っていたのと同じような動機を朝鮮人は持っていなかった。政府のサービス業務に就く朝鮮人は、スキルも経験も不足していた。・・・
南朝鮮では、新たに政府を設立しなくてはならなかった。多くのグループが権力の獲得に挑むと同時に、競争相手の追い落としを図っていた。その統治能力に米国が感心するようなグループはひとつもなかったのである。しかも、米国の占領に抗議することはまた、運命を自らコントロールすることに心がはやる民衆の人気を勝ち取る方法でもあった。・・・」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_07.pdf
→こういう状況下で、しかも、米軍が撤退した後に北朝鮮軍が韓国に攻撃をしかけてきたわけです。
米軍に至れり尽くせりの扱いを受けた戦後日本と、放置されたに等しい戦後南朝鮮(韓国)のしかし、どちらが幸せだったのか、このまま日本が属国であり続けたとすれば、後者に軍配があがりかねません。(太田)
立川京一「日本の捕虜取扱いの背景と方針」の抜粋紹介
「・・・太平洋戦争が開戦し、双方に捕虜が発生し始めると、米国、英国など交戦相手国から、日本には俘虜待遇条約を適用する意思があるのかどうかについて照会があった。それに対して、日本は俘虜待遇条約の「準用」(apply mutatis mutandis)を回答した(1942年1月29日)。東條英機首相兼陸相(当時)が、戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)に提出した宣誓供述書によれば、「準用」という言葉の意味は帝国政府においては自国の国内法規および現実の事態に即応するように壽府条約に定むるところに必要なる修正を加えて適用するという趣旨であった。この点に関しては、外務省も同様の認識であった。しかし、交戦相手国はこの「準用」を、事実上の適用と解した。戦争中の日本に対する抗議や非難声明、あるいは戦後の戦争犯罪裁判などは、そうした解釈に基づいてなされるのである。・・・
東京裁判に提出された武藤章(支那事変発生当時、参謀本部第1部第3課長)の尋問調書(1946年4月16日付)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されている。つまり、陸軍は、戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった・・・
→これは極めて問題。
1937年の日支事変勃発からそれほど時間が経っていない南京事件当時は、このような方針すら中央で決定されないまま、現地部隊の判断で捕虜をとらず、捕虜は処刑する措置がとられたと思われます。
下掲↓の「捕虜・投降兵の虐殺」のところ、参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4) (太田)
死刑や無期刑、1年以上の有期刑などを含むこれらの罰則規定は、懲罰の期間を最長30日と限定する捕虜待遇条約第54条の規定を大きく逸脱している・・・
逃走しない旨の宣誓の強要や面会に監視者を立会わせること<も>国際条約に反している。また、・・・交戦国の利益保護国や赤十字国際委員会の代表者による捕虜収容所訪問は著しく制限された。・・・
「俘虜勞務規則」も日露戦争時の「俘虜勞役規則」(1904年9月10日)を改正加除したものである。両者の違いは、第一に新規則が捕虜の将校の労務を、「其ノ發意ニ基」く場合、可能にしている点である(第1条)。捕虜将校の労務者としての使役は陸戦条約第6条が禁止している。ただし、捕虜待遇条約第27条は将校にも「自己ニ適スル勞働ヲ欲スルトキハ出來得ル限リ之ヲ與フベシ」としているので、必ずしも国際条約違反とは言い切れないが、問題は将校を使役したいあまりに、「發意」の強要が随所で行われたことである。もっとも、両条約とも将校に限らず一切の捕虜を作戦行動に関係する労働に使用することは禁止している。しかし、この点に関しては、旧規則には国際条約に則って、作戦行動に関係する労働への捕虜の使用を禁止する条項があったのに対して、新規則にはそうした条項がない。反対に、太平洋戦争では、日本陸軍は捕虜を作戦行動に関係する労働に使用する方針を掲げていた。・・・
陸軍中央の捕虜の取扱いに関する考え方が変わったのは1942年春のことで、その決定的な契機は4月18日のドゥーリットル空襲であった・・・
国際条約を軽んじる素地は、すでに存在していたと言えよう。
第一に、緒戦における大勝とそれによる驕りがある。そこから、既存の国際法は英米的な観念をもとに築かれたのであって、その英米を打ち負かした日本はそうしたものに従う必要はなく、独自の価値観を押し立て、国際法の内容も日本の精神に基づいたものにするべきであるという論理が生まれた・・・
第二に、中国戦線における国際条約の適用回避の影響である。先に述べたように、支那事変では捕虜を捕らないという方針を掲げて、国際条約に則した捕虜の取扱いを行わなかった。そうしたことへの慣れが太平洋戦争期における国際法軽視を容易にしたのではなかろうか。
第三に、俘虜待遇条約の未批准である。先に述べたような未批准に至った理由もさることながら、未批准という事実が、日本は俘虜待遇条約を正式に承認していないので、従う必要はないという風潮を涵養した・・・
内地では主として日本の傷痍軍人を、外地や占領地域では日本人以外に、主として朝鮮人や台湾人を用いたのは、現役の日本人兵士を捕虜の監視にまわすほど余裕がなかったという実情もあるが、捕虜の監視という仕事を軽んじていたこと、外地では日本人の優越性を認識させようとしていたことなどをその理由として挙げることができよう。・・・」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_08.pdf
マーク・パリロ「アメリカ軍捕虜と残留日本兵-太平洋戦争の「記憶」形成の視点から-」の抜粋紹介
「太平洋戦争が勃発した原因の1つは、文化的な誤解であり、さらに、日本政府および米国政府が共通の見地に立たなかったこと、そしてどちらの国民もお互いの価値観と世界観(Weltanschauung)を理解し合わなかったことも原因の一部であった。同様に、人類史上最大の戦域で展開されたこの戦闘に参加した水兵も、歩兵も、航空兵も、そして海兵隊員も、争い合う民族国家の一員としてばかりでなく争い合う文化の一員としても戦ったのである。・・・
→後出の部分をお読みになれば分かるように、一見耳障りよく聞こえるこのくだりは、パリロの全くの「文化的な誤解」に基づく誤りです。
自由民主主義という共通の見地に立つことを米国政府が拒否し、米国政府が人種主義的帝国主義、米国民が人種主義に凝り固まっていたことが、太平洋戦争勃発の最大の原因だからです。(太田)
日本に捕らえられた米軍捕虜の10%以上が収容先で死亡したが、この数字は、第二次大戦中にドイツ軍の捕虜となった米兵の死亡率4% をはるかに上回る・・・
サムライは、上位の身分の者達からの身体的な虐待をきわめて容易に受け入れ、そしてきわめて容易に下位の身分層に暴力を行使した。収容所の衛兵は、どんなに階級が低かろうとも、みすぼらしい捕虜より上の階級であった。そのような状況の下では、体罰は避けられなかった。・・・
軍人としても人間としても出来損ないの卑しい身分の捕虜は、自分のどこが誤っていたのかを知るために体罰を甘んじて受け、自分の自堕落な生き方を慎ませてくれた社会組織に奉仕することによって、一部分だけでも改めなければならない。
→私刑の横行は、弥生人たるサムライ・・将校・・の属性では全くなく、軍隊/戦争という「異常」の場に置かれた縄文人たる日本の大衆・・下士官・兵・・の属性であり、パリロは完全な誤解をしています。(太田)
経済の状況は、日本軍の捕虜全員にとって、ますます事態を悪化させた。・・・
日本は、長年にわたり主要穀物の一大輸入国だった。真珠湾攻撃から6カ月で日本が進攻し、東アジアと西太平洋の諸国が通常の貿易相手国との交易ができなくなった際に、多くの品物が特に不足した。
当然ながら日本軍は、自ら使うために現地の資源を要求し、大量の食糧が本土に向けて輸送された。たとえば満州の食糧品の60%が日本に送られたと推定され、また、沖縄は、島内で消費される米の三分の二が輸入された・・・
典型的な捕虜の食事は、カロリーが全体的に不充分であっただけではなく、たいていはバランスが取れていないもので、ほとんどの場合、タンパク質とある種のビタミンが不足していた。捕虜は、自分の身体がやせ衰え、脚気などの栄養不良に関連する病気にかかっていることを自覚しながら、毎日苛酷な生存競争に立ち向かっていた。・・・
→これは重要な指摘です。この要因によってどれだけ捕虜が死亡したとしても、それは、本来国際法違反を構成しないはずであるからです。(太田)
米軍捕虜が体験した辛酸が、他国の捕虜の場合とほとんど同じ程度かもしくは多少はましだったりしたことを指摘することは、恐らく有意義であろう。太平洋戦争における捕虜の平均死亡率は14%であり、戦域によってはこの2倍に達した。・・・
民族の哲学を正しく理解したいと思うなら、その民族が戦争でどのような行動を取るのかを研究すべきである。民族の心理を理解したいと思えば、その民族の戦争の記憶を研究すべきである。米国人捕虜と残留日本兵について研究することにより、日本人も米国人も、相互の理解を深めることができるかもしれない。そのような相互理解が70年前にできていたら、太平洋戦争をそもそも回避することができたかもしれない・・・
→ここは、パリロ論考に対して私が記した最初の批判を繰り返すべきでしょうね。
米国人が「理解を深めること」は、太平洋戦争における米国の所業すべての自己否定を意味するのに対し、日本人が「理解を深めること」は、単に思いだすだけのことです。
私が太田コラムでやろうとしているのは、日米双方がこのような意味で「理解を深めること」ができるように促すことです。(太田)
」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_09.pdf
(完)
原爆論争(その7)
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