太田述正コラム#4136(2010.7.17)
<縄文モード・弥生モード論をめぐって(その1)>(2010.11.16公開)
1 始めに
読者の宮里立士さんから、『弥生時代千年の問い–古代観の大転換–』(ゆまに書房 2003年)を贈呈されたので、この本を踏まえながら、縄文モード・弥生モード論を改めて考えてみたいと思います。
この本は、「国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとな・・・る」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
という日本古代史に係る画期的な発見を受けて出版されたものです。
2 戦後日本の古代史
(1)序
この本を読んで、日本の現代史同様、日本の古代史も病んでいると改めて思いました。
(2)本から
「戦後歴史学の原点にあるのは、15年にわたる侵略戦争(満州事変から太平洋戦争)に対する反省であり、それを支えてきた・・・復古史観・・・<すなわち>皇国史観・・・に対する拒否の姿勢だった・・・。
だから、戦後歴史学はどちらかといえば、この国の古代史を、可能な限り発展の遅れた原始的な社会の歴史として描くことに力を注いできた。」(小路田泰直 82、83~84頁)
「戦後の歴史学<は>・・・自虐史観といわれてもしようがない・・・。
敗戦直後・・・、どんなに深いコンプレックスを欧米諸国に対してもっていたか・・・。だから、いかに日本の歴史というのは貧しい歴史であり、そしてまた人間が共同体に埋没して生きてきたか。民主主義なんてまったく育たないような社会だったという考えがメインだった。」(長山泰孝 134~135頁)
「それと、・・・記紀批判。それも津田<左右吉>史学(注1)によりかかった記紀批判がずっと行われていたんですね。そういう見方で記紀を読む限り、やはり国家の成立とか早い時期に考えることがかなり難しくなってくるわけです。・・・<その結果、>すべて昔は大和国家の時代のこととして考えられていたことが全部6世紀以降に下ろされてしまう・・・。不思議なことに6世紀のわずか100年の間に・・・常識に反<して>・・・全部出そろうんですね。」(長山 135~136頁)
(注1)コラム#2888参照。なお、コラム#220、233にも津田への言及がある。(太田)
「稲荷山の鉄剣(注2)が出<て>、大彦という四道将軍(注3)の名前が出てき<たの>・・・は決定的で、・・・記紀批判・・・が変わるのかと思ったけれども、<変わらなかったん>ですね。」(若井敏明 137頁)
(注2)1968年、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣。471年時点において、豪族ヲワケの祖先たる、オホヒコから始まる8代の系譜が記され、この一族の伝統とこの鉄剣を作った理由が記され、かつ、この一族が獲加多支鹵大王に仕えていたと記されている。この大王は、『古事記』『日本書紀』に出てくる大長谷若建命・大泊瀬幼武、すなわち雄略天皇であり、あるいは『宋書』倭国伝にみえる倭王武であると判断された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%89%A3%E3%83%BB%E9%89%84%E5%88%80%E9%8A%98%E6%96%87 (太田)
(注3)「『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀の人物とされている。・・・
<ちなみに、>その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。・・・
『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。・・・
大彦命に関しては、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された・・・鉄剣に見える・・・ヲワケ・・・の上祖・・・<たる>オホヒコ・・・と同一人である可能性が高いとする見解が有力である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%81%93%E5%B0%86%E8%BB%8D (太田)
「記紀の歴史観を大きく裏切るものというのは・・・地面の下から・・は実際には出ていないですよね。稲荷山のあれをみてもそうだし、江田船山のあれ(注4)にしても…。・・・大化の改新にしても。」(長山 139頁)
(注4)1873年、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳から出土した鉄刀。ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが文書を司る役所に仕えていたと記されている。かつては違う読み方をし、反正天皇にあてる説が有力だったが、稲荷山鉄剣の出土で上記読み方が確定した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%89%A3%E3%83%BB%E9%89%84%E5%88%80%E9%8A%98%E6%96%87 前掲 (太田)
「日本古代史がなぜこれだけエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』にこだわって階級支配のためのシステム、機構を国家と認定する。そこからなぜ逸脱できないのか。逸脱したように書くともう袋だたき状態・・・。」(広瀬和雄 145頁)
「とりあえず、三つのことをしなくてはならないと思う。一つは、文献史学だけを歴史学とみなし、考古学や人類学など他の学問をその補助学とみなす、従来の歴史学の感覚を乗り越えなくてはならないと思う。・・・
そして今一つは、『古事記』や『日本書紀』・・・を、歴史書としては信用できない書物として、はなから排除する態度を改めなくてはならないと思う。・・・
弥生時代の始期が500年も早まってしまうと、神武紀元が紀元前660年に設定されていることをもって、ただちに『古事記』や『日本書紀』の記述の荒唐無稽さを言い立てることが、それほど当たり前のことではなくなってしまうからである。列島社会に紀元前7世紀に何らかの国家形成に向けての動きがあったとしても、それは必ずしもおかしなことではなくなってくるからである。」(小路田 88~89頁)
(3)コメント
ここまで書いたところで、宮里さんから、
「『弥生時代千年の問い』は、小路田泰直さんが中心となって出来た本です。
小路田さんは京大出身で、奈良女子大の近代史の先生ですが、この本を出した時期、国内研修で半年間、東大史料編纂所に居り、いろいろお話を伺う機会を得ました。
90年代以降、戦後歴史学が前提としていたものが崩壊したにもかかわらず、その反省が学界内から本格的に起らないことを厳しく批判していました。
「関西で批判しても「地方扱い」で終わってしまう」とも言っておりました。
日本のアカデミズムもそうとう閉鎖的です。
それでも最近は近代史研究もだいぶ変わってきておりますが。」
というメールがありました。
いまだにマルクス主義自虐史観の呪縛の下にある日本の古代史、その病は相当重篤です。
こんな調子じゃ、英米の学者が本格参入してきたら、ひとたまりもありますまい。
(続く)
縄文モード・弥生モード論をめぐって(その1)
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