太田述正コラム#4324(2010.10.19)
<『網野史学の越え方』を読んで(その2)>(2010.11.19公開)
[編著の105~106頁]
「<慈円の>末法思想は、必然的に次のような道理観、人間観を伴っていました。・・・
人は、誰一人完全な人間などいない。「国王よりはじめて、あやしの民まで」<(297頁)>誰も公人としての側面に加えて私人としての側面をもちあわせている。末法の世に完全な公人などいるはずもないからだ。だから道理の何たるかを人に教えられる人も実はいない。道理の何たるかを知ろうと思えば人は自らにそれを問うしかない。・・・
そしてそうした道理観、人間観を伴うから、「道理詮」(公論)<(??頁)>をもって最高の社会規範の形成法とみる社会観も同時に伴いました。現代風にいえば民主主義的な社会観を伴ったのです。
もうおわかりでしょう。<慈円の>末法思想というのは、末法だということであえて人を不完全な存在とみなし、そのことによって完全な人(公人・善人)と不完全な人(私人・悪人)の差別(身分制)を無意味化し、一つには人間の根本的な平等性をいい、二つには社会をその平等な人々の共同体とみなす思想だったのです。・・・
善人でさえ往生できるのだから、悪人はなお一層往生できるはずだといった親鸞の逆説があってはじめて、造寺造仏に多額の寄付を行う善人と、そんなことできるはずもないし、行いもしない悪人との間の根本的な差異が解消し、この国に生きる人は誰彼なく同じ人間としての平等な扱いを受けるようになったことを、ここでは想起ししておきたいと思います。」
(2)この指摘の評価
ところで、小路田が自分が拠ったとしてこの編著に転載している『愚管抄』の箇所は次のとおりです。
「世間は一○<(草冠に部)>と申して。<(慈円は「、」と「。」を区別していない)>一○<(左に同じ)>がほどを<(慈円は「お」と「を」を区別していない)>ば六十年と申。支干をなじ年にめぐりかへる程也。このほどをはからいて次第にをとろへては又をこりをこりして。をこるたびはらとろへたりつるを。すこしももてをこしをこししてのみこそ。けふまで世も人も侍<(はべ)>めれ。たとへば百王<(注4)>と申につきて。これを心へぬ人々に心へさせんれうに。…せむずるところは唐土も天竺も三国<(注5)>の風儀。南州<(注6)>の盛衰のことはりは。をとろへてはをこり。をこりてはをとろへ。かく次第にして。はてには人寿十歳に減じては、<(「。」の誤植か)>劫末になりて。又次第にをこりいでいでして人寿八万歳までをこりあがり侍なり。その中の百王のあいだの盛衰も。その心ざし道理のゆくところは。この定めにて侍なり。」(『愚管抄』108~109頁)(編著103頁)
(注4)「中国の南北朝時代の僧・宝誌の手によるとされる「野馬台詩」が、天皇家の未来を予言したものだという説が中世にかけて流布し、「百王説」が論じられた。これはいかなる王朝も100代までで滅びるというものであり、すでに鎌倉時代初期には『愚管抄』などでも取り上げられている。
その後の南北朝時代、皇統は神武以来100代に達し、折からの政情不安と末法思想が相まって、北畠親房が言及するなど大いに論じられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%9C%AB%E8%AB%96 (太田)
(注5)魏呉蜀のことか。(太田)
(注6)「宝誌(・・・418年~514年・・・)は、中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E8%AA%8C
ということから、南朝のことだろうか。(太田)
「日本国の世のはじめより。次第に王臣の器量果報をとろへゆくにしたがいて。かかる道理をつくりかへつくりかへして。世の中はすぐる也。劫初劫末の道理に。仏法王法。上古中古。王臣万民の器量を。かくひしとつくりあはする也」(『愚管抄』295頁)(編著103~104頁)
「道理ども…いかに心えあはすべきぞといふに。さらにさらにこれを教ふべからず。知恵あらん人のわが智解にてしるべき也。但もしやと心の詞のゆかんほどをば申しひらくべし。」(『愚管抄』296頁)(編著105頁)
「世と申と人と申とは。二の物にてはなき也。世とは人を申也。その人にとりて世といはるる方は。をほやけ道理とて国のまつりごとにかかりて。善悪をさだむるを世と申也。人と申は。世のまつりごとにものぞまず。すべて一切の諸人の家の内までを、だしくあはれむ方のまつりごとを。又人とは申也。其人の中に国王よりはじめて。あやしの民まで侍ぞかし。」(『愚管抄』297頁)(編著105頁)
何度も読み返していると、何となく意味が分かったような気がしてきませんか?
それにしても、小路田のような解釈がこれら箇所について本当に可能なのかどうかまでは私には分かりません。
しかし、仮にかかる解読が可能とすると、慈円は、日本を漸進的に民主主義へと歩む国として規定した偉大な政治哲学者であると言ってよいと思いますね。
以上を踏まえれば、慈円が敷いたこの線路の上で機関車を走らせた人物が、以後、北畠親房、新井白石、松平定信という具合に次々に出現して(コラム#4168、4170、4175、4177)明治維新に至る、ということになりそうです。
そうだとすると、この点でも、日本はイギリスとよく似ています。
どこが違うかというと、イギリスはコモンローが中心にあって、イギリスが次第に民主主義へと歩む過程で、コモンローが政治の発散や暴走を食い止めてきたのに対し、日本の場合、その役割を果たしてきたのは天皇制であったことではないでしょうか。
3 終わりに
もとに戻って、日本史に関する大きな物語・・日本史観・・をどのように描くかについては、私の縄文・弥生モード論はその一つの試みですが、十分展開されていませんし、いずれにせよ、よりもっともらしい史観がどんどん新進気鋭の日本の学者から提示されることを心から期待しています。
その際、必要不可欠なのは、他文明や他国との比較史的視点であり、諸外国における世界史観・・とりわけ英米諸国におけるそれ・・との突き合わせです。
網野の場合で言えば、その経歴や業績からすると、ドイツ由来の唯物史観やフランス由来のアナール学派の史観を学んでいることが分かりますが、それらときちんと向き合うことをしなかったようである上、英米由来の史観とは全く無縁であったように拝察され、また、比較史的視点も余り感じられません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E5%BD%A6 前掲
まことに口幅ったい言い方で何ですが、網野を乗り越えるとすれば、網野のかかる研究姿勢を乗り越えることこそが求められている、と私は思うのです。
(完)
『網野史学の越え方』を読んで(その2)
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