太田述正コラム#4142(2010.7.20)
<縄文モード・弥生モード論をめぐって(その4)>(2010.11.21公開)
5 1回目の縄文モードと弥生モード
 (1)1回目の縄文モード:王朝国家
  ア 始まり
 1回目の縄文モードの始まりは、(いわゆる王朝国家(後述)の成立よりやや早い)866年の藤原良房の摂政就任である、としたいですね。↓
 「・・・藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つある。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることだった。・・・
 律令では、太政官が奏上する政策案や人事案を天皇が裁可する、という政策決定方式が採られていた。すなわち、天皇に権力が集中するよう規定されていたのであるが、摂政・関白という天皇の代理者・補佐者の登場は、摂関家が天皇の統治権を請け負い始めたことを意味する。
 摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけては、国外へは鎖国主義を採り、国内でも蝦夷侵略がほぼ集結するなど、国内外に大きな脅威がなくなり、国政も安定期に入っていた。そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなった。また、公的な軍事力が低下する反面、摂関家は、武力に秀でた清和源氏を家来とするなど、軍事力の分散化が見られ出した。・・・
 また、国政の安定を背景に、権力の分散化も顕著となっていき、例えば、地方官の辞令を受けた者から現地の有力者へその地方の統治権が委任されるといった動きも見られた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
(7月20日アクセス)
→人間(じんかん)主義的なエージェンシー関係の重層構造という日本型政治経済システムの原型を、早くも1回目の縄文モードないし王朝国家において見出すことができますね。
 その背景にあるのが縄文的な国内外が平和な環境の出現であり、その結果もたらされたのが、死刑の停止(注10)、鎖国、中央政治の形骸化、というわけです。(太田)
 (注10)「嵯峨天皇が弘仁9年(818年)に盗犯に対する死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布した。死刑を全面的に停止あるいは廃止する法令が出されたことは無いものの、死刑の範囲が縮小するとともに実際に執行されることがなくなり、やがて全面的な死刑の停止が先例(慣習法)として確立されたと考えられている。・・・
 <日本以外の世界における>すべての死刑廃止論は平時のみの死刑廃止であり、戦時にまで死刑廃止を貫徹したのは平安時代の珍しい特徴である。・・・
 嵯峨天皇の宣旨から保元の乱の起こった保元元年(1156年)まで、338年の間、全国的に平時死刑は廃止され、京においては平時・戦時例外なく死刑執行は停止されていた。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91
(7月20日アクセス)
  イ 文化
 
 そして、中西の言う、手弱女ぶりの文化が花開きます。↓
 「・・・唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であった・・・
 末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像、絵画などにその影響を残した。
 藤原氏(藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。
 奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字(ひらがな、カタカナ)が広く使われるようになった。・・・
 服装<は、>湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとしたシルエットになった。・・・
 貴族住宅が寝殿造の様式で建てられた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96
(7月19日アクセス。以下、特に断っていない限り同じ)
→摂関政治や女性の活躍、ひらがなの普及は、縄文的な女系化したこの時代ならではの産物なのです。(太田)
  ウ 制度
 「王朝国家は、日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。
 律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。・・・
 <すなわち、>現地の富豪層(田堵(たと)・負名(ふみょう)層)が名田経営と租税納入を請け負うという名体制が形成されていった(注10)。・・・
 (注10)「<醍醐天皇の>延喜年間<(901~923年)>になると諸国の国衙はそれまでの国内公田(口分田・乗田など)の直接支配から、その公田を名(みょう)という単位に分割し、それぞれの名の経営を当時「富豪の輩」と呼ばれていた田堵に請け負わせる体制に移行した。そのような田堵は「田堵負名」などと呼称された。田堵負名は、名経営を国衙から委任される代わりに、官物・雑役などの租税・課役を国衙へ進納する義務を負った。こうした租税収取体制を負名体制といい、この時期に始まった王朝国家体制の基礎となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A0%E5%90%8D
(7月20日アクセス)
 「<そして、>国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち受領層が出現<した。>・・・
 <更に、>現地の・・田堵負名層が採用され、在庁官人として地方行政の実務にあたるようになった。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%9B%BD%E5%AE%B6
  エ 国衙軍制
 軍隊が消滅していたに等しい王朝国家ですが、治安警察機能は必要であり、その担い手として登場したのが武士です。
 「・・・こうして成立したのが、国衙を中心とする軍制、すなわち国衙軍制である。国衙軍制成立の過程で武芸、すなわち軍事を専門とする諸大夫身分の貴族(軍事貴族)や侍身分の官人層が出現し、これらの層の上層身分たる軍事貴族層では、特に東国を中心として、自ら国司として現地赴任する者も現れた。軍事貴族などの武芸の家は桓武平氏・清和源氏・一部の藤原氏などから出たが、彼らの子孫が後の武士へと成長していった。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%9B%BD%E5%AE%B6 上掲
 「国衙軍制とは、日本の古代末期から中世初頭にかけて(10世紀~12世紀)成立した国家軍事制度を指す歴史概念。律令国家が王朝国家へと変質し、朝廷から地方行政(国衙・受領)へ行政権を委任する過程で成立したとされる。また国衙軍制は、軍事貴族および武士の発生と密接に関係していると考えられている。
 –前史–
 古代日本の律令国家は、軍事制度として軍団兵士制を採用していた。軍団兵士制は、戸籍に登録された正丁(成年男子)3人に1人を徴発し、1国単位で約1000人規模の軍団を編成する制度であるが、これは7世紀後葉から8世紀前葉にかけての日本が、外国(唐・新羅)の脅威に対抗するため構築したものだった。しかし8世紀後葉、対新羅外交政策を転換したことに伴い、対外防衛・侵攻のための軍団兵士制も大幅に縮小されることとなった。そのため、軍団兵士制を支えてきた戸籍制度を維持する必要性も低下していき、9世紀初頭以降、律令制の基盤となっていた戸籍を通じた個別人身支配が急速に形骸化していった。
 律令制の個別人身支配が弛緩していくと、在地社会の階層分化が進み、百姓の中から私出挙・私営田活動を通じて富を蓄積した富豪層が成長し始めた。地方行政にあたる国司は、郡司・富豪層に着目し、従来の個別人身支配の代わりに郡司・富豪層の在地経営を通じた支配へと転換していった。国司は調庸・封物を中央の朝廷へ運搬進納する義務を負っていたが、国司はその運搬進納を担う綱領に郡司・富豪層を任じるようになった。調庸・封物の損失や未進が発生した場合は、郡司・富豪が私的に補償する義務を負わされた。
 9世紀中葉ごろから、郡司・富豪層が運搬する進納物資を略奪する群盗海賊の横行が目立ち始めた。群盗海賊の実態は、実は郡司・富豪層であった。国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出したのである。略奪した物資は、補償すべき損失や未進に充てられたり、自らの富として蓄積されたりした。群盗海賊の頻発に対し、朝廷と国司は、ほとんど形骸化した軍団兵士制では満足のいく対応ができなかったため、別の鎮圧方策をとる必要に迫られていた。
 –原型期–
 9世紀中葉における朝廷・国司は、群盗海賊の制圧のために養老律令の捕亡令(ほもうりょう)追捕罪人条にある臨時発兵規定により対応し始めた。臨時発兵とは、群盗海賊の発生に際し、国司からの奏上に応じて「発兵勅符」を国司へ交付し、国司は勅符に基づき国内の兵を発して群盗海賊を制圧する方式を指し、長らく適用されることはなかったが、群盗海賊の横行に直面してこの方式が採用されることとなった。
 臨時発兵規定で想定されていた兵とは、軍団兵士や健児ではなく、百姓のうち弓馬に通じた者であった。弓馬に通じた百姓とはすなわち、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる俘囚であった。臨時発兵規定の適用により、郡司・富豪層と俘囚が国内の軍事力として新たに編成されることとなったのである。特に俘囚が有していた高い戦闘技術は、新たに形成されようとしている軍制に強い影響を与えた。俘囚は騎馬戦術に優れており、騎乗で使用する白兵である蕨手刀は後の日本刀へとつながる毛抜形太刀の原型となっている。
 883年(元慶7)に上総国で勃発した俘囚の武装蜂起(上総俘囚の乱)に際し、朝廷は発兵勅符ではなく、「追捕官符」を上総国司へ交付した。追捕官符とは、同じく捕亡令に基づくもので、逃亡した者を追捕することを命ずる太政官符である。この事件を契機として、以後、追捕官符を根拠として、国司は追捕のため国内の人夫を動員する権限を獲得することとなり、積極的に群盗海賊の鎮圧に乗り出すようになった。そして、国司の中から、専任で群盗海賊の追捕にあたる者が登場した。これは、後の追捕使・押領使・警固使の祖形であるとされている。
 以上のようにして、国衙軍制の原型が形成されていった。
→このように、治安の悪化により、律令国家の末期において、国ごとにエージェンシー関係によった治安警察機能が設けられるに至ったわけです。(太田)
 –成立期–
 9世紀末から10世紀初頭にかけての寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開した。調庸・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家(皇族・有力貴族)は富豪層と結びつき、自らの収入たる封物の確保を図った。富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進して荘園とし、国衙への納税回避を図っていった。かかる危機に直面した国衙行政と中央財政を再建させるために、院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切るとともに、国司へ大幅な支配権限を委譲する改革が行われたのである。これにより成立した支配体制を王朝国家体制という。
 王朝国家体制への移行により、富豪層による調庸・封物の京進は廃され、国司(受領)による租税進納が行われるようになった。その結果、調庸・封物京進を狙っていた群盗海賊は沈静化することとなった。また、受領への権限集中が行われ、国衙機構内部は受領直属部署(「所」という)を中心とするよう再編成された。郡司・富豪層は、土地耕作を経営し納税を請け負う田堵負名として国衙支配に組み込まれ、また、各「所」に配属されて在庁官人として国衙行政の一翼を担うようになった。
 上記の国政改革と並行して、東国では寛平・延喜東国の乱<(889年~)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%B9%B3%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%96%9C%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1 (太田)
>が発生していた。これに対し、朝廷は追捕官符を国衙へ発給し、さらに各国へ国押領使を配置する対策をとった。追捕官符は発兵などの裁量権を受領に与えるものであり、受領は国内の田堵負名層を兵として動員するとともに、国押領使へ指揮権を与えて実際の追捕にあたらせた。このように、寛平・延喜東国の乱の鎮圧過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国において成立した。この軍制は、追捕官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押領使へ指揮権が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追捕活動にあたる、というシステムである。そして、同乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」こそが最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。
 一方、西国では承平年間(930年代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し(「承平南海賊」)、936年(承平6)、追捕南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を奏し、海賊が投降した。海賊らの実態は富豪層であり、彼らは従前から衛府舎人の地位を得ていた。衛府舎人は大粮米徴収権の既得権を有していたが、朝廷は延喜年間(900年代)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策を打ち出した。この延喜期の既得権剥奪によって経済基盤を失おうとしている瀬戸内沿岸の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けていたが、承平期に至ってついに海賊行為を展開することとなった。そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者が実は藤原純友であった。海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応のための警固使が設置された。この西国の警固使は東国の押領使・追捕使に該当する。追捕官符によって兵力動員権を得た受領のもと、警固使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編成し、有事に際しては指揮権を行使した。ここに、西国においても東国と同様の国衙軍制が成立したのである。
→後で再述しますが、この国衙軍制の成立にあたってその中核たる武士となった、と「高橋昌明<(コラム#4119)>らによって<指摘されたのが、(私に言わせれば己の弥生性に目覚めた)貴種であるところの>「源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB
でした。(太田)
 –展開期–
 天慶年間(930年代末~940年代後葉)の平将門の乱・藤原純友の乱は、寛平・延喜東国の乱および承平南海賊での勲功行賞が十分に行われなかったために発生したと解されている。寛平・延喜東国の乱と承平南海賊のいずれにおいても、反乱制圧・平和維持に尽力した最初期の武士たちは、十分な恩賞が与えられたとは考えなかった。これら功績をあげた最初期の武士たちは、貴種の血統を受けており、武芸をもって朝廷政治への再復帰を目指していたが、それが叶えられないために、実力行使による抗議行動に出たのである。
 結果として、抗議行動に出た者たちは反乱者として鎮圧された。そして、鎮圧した武士たちが、勲功をもとに満足のいく恩賞を獲得することとなった。このとき勲功を挙げた者を承平天慶勲功者と呼ぶ。彼らのほとんどは貴族の血統に属してはいたが、極めて低い官位にある中下級官人であった。しかし、乱の反省から朝廷は彼らを五位・六位といった受領級の中・下流貴族に昇進させた。そのため、10世紀後半の貴族社会において、承平天慶勲功者とその子孫は軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになり、この兵の家が軍事貴族ないし武士の母体となった。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E8%BB%8D%E5%88%B6
→後で再述しますが、上記のような治安の乱れの質の変化と規模の拡大に伴い、このように、次第に貴種たる武士であるところのエージェントにアドホックに委任する形の全国的な治安機能が出現するに至ります。
 なお、戦時においてさえ京では死刑が停止されていましたが、「承平天慶の乱など続発する地方の戦乱への対処では、追討対象者は殺害されることが普通であ<り、>承平天慶の乱では、討ち取られた平将門と藤原純友の首が京で晒し首となってい<ます>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91 前掲(太田)
  オ 終わり
 1回目の縄文モードの終わりの始まりは1086年の院政の開始でしょう。↓
 「・・・白河天皇は1086年に上皇となったが、それは引退などではなく、上皇としての政治、いわゆる院政の開始を意味した。律令の規定上、上皇は天皇と同等の権力行使が可能であり、天皇の実父であるという強みも得て、政治権力は摂政・関白から上皇へシフトしていった。・・・
 古典的な理解での摂関政治はまさに院政によって終焉した。古典的理解による摂関政治は母系的繋がりを持つ天皇、公卿による政治の独占で、母系の要となる者が摂政・関白となるという理解である。・・・
 律令政治初期の頃から、上皇が「天皇家の家父長」として天皇の保護者・後見者を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来る・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB 前掲
 そして、それが「正式に」終わったのは、(名実ともに王朝国家が終焉を迎え、)鎌倉幕府が成立した1185年である、としたいですね。
(続く)