太田述正コラム#4144(2010.7.21)
<縄文モード・弥生モード論をめぐって(その5)>(2010.11.22公開)
 (2)1回目の弥生モード:鎌倉・室町幕府
  ア 濫觴期
  (ア)武士の生誕
 「・・・日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」<と>し、日本は近代化できると主張し<、>武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために「武装した大農園主」が起源とする・・・学説は<日本で>広く受け容れられ、<マルクス主義の影響もこれあり、>戦後も学界の主流を占めることとなった。・・・
 しかし、<かかる>「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。
 そこで、佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。・・・
 軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であ<り>、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった<というのである>。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB 前掲
 「・・・かつて、古代的な貴族統治体制を打破したのは武装農民層に由来する武士であるとする説が有力とされていたが、1960年代に戸田芳実や石井進らによる国衙機構に関する研究が進展すると、武士の起源=武装農民説はもはや成立し得なくなった。国衙軍制の可能性を指摘し、それが武士の起源に関係することを論じたものには、石井進<の>1969年<の研究>や戸田芳実<の>1970年<の研究>などがある。
 その後、武士の起源に関する研究は、<上述の>職能論などが議論の中心となり、国衙軍制論は半ば忘れられた状態となったが、1970年代末から1980年代にかけて下向井龍彦らによる研究・問題提起が積極的に進められた。下向井らの議論は、武士の成立を王朝国家論・荘園公領制論などと整合的・有機的に結びつけるものであり、21世紀初頭において、武士成立に関する最も有力な説の一つに位置づけられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E8%BB%8D%E5%88%B6 前掲
→繰り返しになりますが、国内の治安の維持を貴種たる武士にアウトソーシング(エージェントたる武士に委任)することで、王朝国家における国衙軍制が形成された、ということです。(太田)
  (イ)この武士の在地領主化
 「・・・11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立や院政・武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。・・・
 国内支配に大幅な権限を有した受領と、名(みょう)経営や私領経営などを通じて経済力をつけてきた郡司・田堵負名層との間には、次第に経済的・政治的矛盾が生じるようになり、10世紀後期から両者間の対立が国司苛政上訴という形で顕在化するようになる。・・・
 摂関政治の成立、官司請負制の登場などが、王朝国家体制に対応した中央政治の変化を表しているのではないかとする議論がある。・・・
 11世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。この流れの中で、それまで公田経営請負によって(つまり田堵・負名層となることで)武人としての経済基盤を与えられていたに過ぎなかった武士が、荘園と公領間の武力紛争の対処能力を期待され、国の下部組織である郡、郷、別名、保、条、院や、一円化してまとまった領域を形成するようになった荘園の管理者としての資格を得て、在地領主としての地位を獲得していった。これらの動きは、中世を通じて社会体制であり続けた荘園公領制の出現を意味するものであり、これと相前後して開始した院政と併せて、11世紀後期には既に中世<(私に言わせれば弥生モード(太田)>に入っていたと見ることもできる。・・・
 また一方では、王朝国家と呼ぶべき政治実態は、鎌倉幕府成立後の朝廷にも見られるとして、13世紀の朝廷による支配体制も王朝国家体制期に含める意見・・・もある。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%9B%BD%E5%AE%B6 前掲
 「・・・
 –変質期–
 11世紀中葉に、王朝国家体制の変革が行われた。1040年代を画期として、それ以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分する考えがある。この考えによると、後期王朝国家は全国的な租税賦課(一国平均役など)を契機として成立した。それまでは、受領の権限のもとで地方行政が展開しており、郡司・富豪層らが開発してきた荘園も国衙の承認によって存立していた(国免荘)。しかし、内裏の焼亡などを契機とした臨時措置として全国的な租税賦課が実施されると、荘園側は、国衙でなく中央の太政官へ免税の申請を行うようになった。免税特権を獲得した荘園は領域が統合される一円化の措置などを通じて拡大する傾向を示し、国衙が支配する公領を蚕食し始めた。ここに至り、田堵負名層らによる対受領闘争(「凶党」行為)はほとんど見られなくなり、代わって荘園と公領間の相論・武力紛争が頻発し始めた。
 国衙軍制は凶党の追捕を対象としていたが、荘園・公領間の紛争において、荘園側は凶党には当たらないこととされたため、国衙軍制をもって荘園・公領間紛争を制圧することはできなかった。そこで受領は荘園への対抗手段として、主に軍事的に対応能力を有する武士身分の田堵負名に公領の経営と治安維持を委任することで、公領の維持を図ったのである。・・・
 彼らは一方では国衙側の郡司・郷司として国衙領の維持にあたり、一方では荘園側の荘官として荘園拡大を図っていたのである。こうして武士の在地領主化が進行していった。在地領主化した武士は、在庁官人となって国衙行政に参画する一方で、婚姻関係を通じて党を組み、武士団と呼ばれる結合関係を構築していった。一国に1人置かれる国追捕使または国押領使は、次第に特定の家系が世襲するようになり、こうした累代の国追捕使は国内武士の指導者、つまり「一国棟梁」として国内武士を組織化した。
 11世紀中葉の後期王朝国家の成立以来、国衙軍制は機能停止してしまった。国内武士は受領の動員命令ではなく、追捕使の地位を持つ「一国棟梁」の指揮に従うようになっていた。・・・
 12世紀末の治承・寿永の内乱(源平合戦)を経て、初期鎌倉幕府政権は、国追捕使の権限を継承した惣追捕使を各国に設置することについて、朝廷から承認を得た。惣追捕使は、国内武士を統率する役割を担っており、これは国衙軍制の枠組みを導入したものと評価できる。惣追捕使はその後、守護制度へと発展していった。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E8%BB%8D%E5%88%B6 前掲
 「・・・<要するに、>11世紀以降、在地領主の武士化ではなく、武士の在地領主化が進行した。・・・
 結局、摂関期までの追捕使とは、国内武士を統制する指揮官というより、受領もしくはその協力者たる国内有力者の軍事行動を、適法ならしめる措置をいっているのであろう。国司から郡司雑任クラスまでの弓箭(剣)を含む武装の勅許といった事実も存在するから、国衙レベルで個別に軍事組織の形成が進行していたことは否定しないが、氏が印象ずけようとしているシステマチックに機能する国衙軍制は、全体としては形成を見ていないとすべきである。・・・」
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35_7.html
→長々と引用してきましたが、一言で言えば、武士が次第に在地領主化して行った、というわけです。
 武士が在地領主化するのに伴い、彼等と荘園の領主たる貴族、ひいては朝廷、との紛争が生じ、これがやがて武士全体と貴族全体(朝廷)との間の権力争いへと発展して行くことになるわけです。
 この権力争いに武士側が勝利を収めた時点をもって、弥生モード化がなった・・一般用語で言えば、中世へと移行した・・と言えるのでしょうが、その時点がいつかについて様々な説があるのは当然です。
 私としては、鎌倉幕府成立に係る通説↓に従い、1185年説をとりたいと思います。(太田) 
 「鎌倉時代<の>・・・始期については諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力視されている。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3
(7月21日アクセス)
  イ 鎌倉幕府の成立とその権力の強化・拡大
 こうして武士側が朝廷側に勝利を収め、鎌倉幕府が成立してからも、以下↓のように、鎌倉幕府の権力の質的強化と量的拡大が続きます。
 「・・・1985・・・年、源義経・源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)に限定されていた。・・・
 <元寇の後、>西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C
(7月21日アクセス)
 「・・・<鎌倉時代は、>朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切<である。>・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲
→これは、鎌倉時代が、1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変、1205年:畠山重忠の乱、1213年:和田合戦、1221年:承久の乱、1247年:宝治合戦、1285年:霜月騒動、1293年:平禅門の乱、といった具合に国内の治安の乱れが続いた上に、この間、元寇、すなわち、1274年:文永の役、1281年:弘安の役、という外患まで出来する、という有事の時代であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C 前掲
ことから、武力でもって治安を維持し国を防衛するところの鎌倉幕府の権力が次第に朝廷に対して相対的に高まって行ったということです。(太田)
 また、以下↓のように、(天皇の威信は低下する一方、)幕府において、将軍→執権→得宗、へと権力の中心が移動するとともに、権力の集中が図られていきます。
 「・・・ 1221年(承久3)<、>承久の乱<に幕府は勝利し、>・・・<倒幕の>主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされ・・・朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。・・・
 <1224年に第3代執権に就任した北条>泰時・・・は、<源実朝暗殺以降6年余征夷大将軍が不在であったところ、1226年にいわゆる摂家将軍たる藤原頼経を征夷大将軍に擁立し、>執権政治<を>確立<した。>。・・・
 <やがて、>2代<の>・・・摂家将軍<を経て、北条時頼の時の1252年から、>親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ<るようになり、>・・・将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。・・
 時頼は、<1256年、>病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制という。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C 上掲
 なお、以下↓も参照した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
(どちらも、7月21日アクセス)
 「・・・源頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。・・・
 13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があった・・・
 西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする北条氏嫡流家である得宗家が御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになった。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲
→これは、鎌倉時代のような有事の時代においては、エージェンシー関係の重層構造を基調とするような縄文的な権力分散システムでは、責任の所在が不明確であって、秘密を保全しつつ迅速な意思決定を行うことができず、有事に対処できないことから、一人の人間のみが、重要な情報全てにアクセスしつつ意思決定を下すという権力集中システムへと次第に移行して行ったということです。(太田)
(続く)