太田述正コラム#4364(2010.11.8)
<映画評論16:スミス都へ行く/エビータ(その4)>(2010.12.8公開)
(4)エビータ
それでは、肝腎のエビータ(愛称)についてです。
「エビータ」名の映画/ミュージカルは、(現在においてもそうですが、)それぞれが封切られた時点において、ペロニズムがアルゼンチンで大きな力を持っていることを考慮してか、史実に比較的忠実な内容になっています。
エビータのペロンに出会うまでの男性遍歴ぶりは史実に反している、という批判がなされていますが、封切られた時期にはそれなりの典拠があったと考えられます。
ただし、映画/ミュージカルが、ペロニズム=ファシズム論を基調にしており、エビータの扱い方も全般的にやや辛口であること、は銘記されるべきでしょう。
エビータことマリア・エヴァ・デュアルテ・デ・ペロン(Maria Eva Duarte de Peron。1919~52年)は、スペインのバスク地方からの移民であった両親の下に、父親の私生児として生まれました。
映画やラジオにおける女優として、あるいはファッションモデルとして活躍するようになっていたエビータが、ペロン(Juan Domingo Peron。1895~1974年。軍人。祖父母がイタリアのサルディニア島からの移民。恐らくは私生児)・・最初の妻が病死し男やもめだった・・と出会ったのは、1944年であり、それぞれ、24歳と48歳の時でした。
男女関係にやかましいカトリック教国アルゼンチンで、ペロンはエビータと同棲生活を始めます。
また、女性が差別され、かつ芸人が蔑まれていた当時のアルゼンチンで、ペロンはエビータを自分の政治活動に積極的に参加させ、役所等における公的会議にも出席させました。
当時厚生労働相をしていたペロンは、ラジオ放送に携わる芸人に排他的労組を結成させ、その組合長に彼の愛人エビータが就任します。エビータの政治活動の始まりです。
そして、二人は翌年、結婚するのです。
更に、その翌年の1946年にはペロンは大統領に選出されます。
この選挙運動に、エビータは、自分のラジオ番組を通じ、自分とペロンが庶民階級の出身であることを強調するとともに、ペロンの全国遊説に同行し、その当選に多大の貢献をします。
1947年には、エビータの尽力もあって、女性に参政権が付与されます。
エビータは、ペロンによって厚生労働相に任命されるとともに、ペロンの正統を補完するところの、女性の政党を創立し、更に、慈善団体のエヴァ・ペロン財団を自分の私財をまず投じて設立します。
この財団は、各界から(一部は無理矢理)集めた資金でやがて職員数1万人の大組織となり、彼女はその長として大活躍をします。
彼女は、この財団からの援助を求めてやってきた人々と毎日何時間も会って話をし、しばしば彼等とキスをし、ふれ合いました。
怪我をしている人や病気の人・・梅毒やハンセン氏病に罹っている人でさえ・・ともそうしました。
アルゼンチンは世俗的な国ではあったけれど、あくまでもカトリック教国、しかも、当時の欧州とは違って古のカトリシズムがまだ生きていた国、であり、エビータが次第に聖女視されるようになって行ったのは不思議ではありません。
最後には、エビータは、毎日20~22時間もこの財団で仕事をするようになっていました。
その彼女は、いわば公衆の面前で、33年間の、充実していたけれど短い人生を閉じるのですが、これによって、彼女の聖女性はいや増しに増しました。
子宮癌で死去する少し前の1952年に、エビータは、前述したように「国民の精神的指導者」という称号を議会から授与され、葬儀は、元首並みの国葬として執り行われ、彼女の遺骸には永久保存措置が施されるのです。
エビータは、第一に、バスク系としては、正真正銘のバスク人であるイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola=Saint Ignatius of Loyola(英)。1491~1556年。イエズス会の共同創設者の一人)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ignatius_of_Loyola
やフランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier=Saint Francis Xavier(英)。1506~52年。ロヨラの弟子にしてイエズス会の共同創設者の一人)
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Xavier
と並ぶ偉人であると言うことができます。
第二に、彼女は、中南米において、敬慕されている女性としては、一方は実在の女性ではありませんが、グアダループの聖処女(Virgin of Guadalupe=Our Lady of Guadalupe)(注3)に比肩される存在であり、中南米の多くの家庭の壁には両者の肖像が並べて掲げられているといいます。
(注3)1531年12月9日にメキシコシティー近郊の一人の原住民の農夫の前に現れ、12日に彼の外衣にその肖像が生じたとされる生母マリア。
http://en.wikipedia.org/wiki/Our_Lady_of_Guadalupe
第三に、彼女は、アルゼンチン人として、やはりアルゼンチン人たるチェ・ゲバラ(Che Guevara。1928~67年。スペイン、バスク、アイルランド系。キューバ革命で重要な役割を果たした後、ラテンアメリカ全体の「革命」に身を投じ、ボリビアで「戦死」)
http://en.wikipedia.org/wiki/Che_Guevara
と比較されるところの、ナイーブだが効果的な信条、よりよい世界への希望、世界の恵まれない者・屈辱を与えられた者・貧しい者のために捧げられ、犠牲となった生涯、といった点で、イエス・キリストを彷彿とさせる存在なのです。
このことから、映画/ミュージカルの制作者は、チェと称する男を、あらゆる場面で姿を変えて現われさせ、劇の狂言回し役を務めさせています。
(以上、特に断っていない限り、全般的にdに、そして部分的にf、e、c、bによる。)
(続く)
映画評論16:スミス都へ行く/エビータ(その4)
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