太田述正コラム#4174(2010.8.5)
<アダム・スミスと人間主義(その1)>(2010.12.12公開)
1 始めに
 ニコラス・フィリップソン(Nicholas Phillipson)が、 ‘Adam Smith: An Enlightened Life’ を上梓しました。
 さっそくイギリスで書評が何本か出ているので、これら書評類をもとに、アダム・スミスの思想探求の心の小旅行に出かけることにしました。
A:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/7916807/Adam-Smith-An-Enlightened-Life-by-Nicholas-Phillipson-review.html
(8月3日アクセス。以下同じ)
B:http://www.ft.com/cms/s/2/81a3b0e6-9b62-11df-8239-00144feab49a.html
C:http://adamsmithslostlegacy.blogspot.com/2010/08/two-reviews-of-nicholas-phillipsons-new.html
(上記2つの書評を踏まえた書評)
D:http://newhumanist.org.uk/1479/thinker-adam-smith
(著者による一種の予告コラム)
 ちなみに、フィリップソンは、元エディンバラ大学講師で現在は名誉研究フェローの初期近代・近代スコットランドの知の歴史の研究家です。
http://www.shc.ed.ac.uk/Profiles/HonFellows/PhillipsonNHonFell.htm
2 アダム・スミスと人間主義
 (1)スミスとその生涯
 「・・・<スコットランドの>カークカルディー(Kirkcaldy)の中産階級の家に生まれたスミスは、グラスゴー大学の課程を恙なく終え、オックスフォード大学への奨学金を勝ち取った。
 1746年、ジェームス2世統支持派(Jacobite)の最後の叛乱<(コラム#181)>の後、スミスはスコットランドに戻り、エディンバラ大学の講師となり、ついでグラスゴー大学の教授となった。
 そして、この地で、彼は初めて彼の国際的評判を確立したところの『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)』(1759年)を書き上げた。・・・」(A)
 「・・・彼は、グラスゴー大学の道徳哲学の教授を1752年から1764年まで務めた。・・・」(D)
 「・・・1760年代央に3年近く、彼はフランスに住み、若きバクルーチュ(Buccleuch)公爵の家庭教師を務め、フランス啓蒙主義の大勢の有名な思想家達に会った。
 これは、彼の唯一の外国経験だ。
 それ以降は、この公爵からの気前の良い年金のおかげで、彼は大学での仕事に戻る必要がなくなった。
 彼は研究に専念し、彼の主著である『国富論(The Wealth of Nations)』を1776年に生み出した。・・・」(A)
 「<その後、スミスは希望してエディンバラの関税局長(Commissioner of Customs in Edinburgh)に就任するのだが、>この職務によって、とりわけ彼がこの局長職の義務に精励することを心がけたことによって、彼は、各国を治めるための諸法と憲法について執筆するという、(1759年以来の)長年にわたる約束を実行することに伴う当惑を免れることができた。
 というのも、そんなことをすれば、北米における元英領諸植民地の政府について、(好意的に)詳述しなければならならず、それはとりもなおさず、英国の立憲君主制に対して批判的であると見られるに違いないことを意味したからだ。
 スミスは、(国王の役割に敬意を抱いていたことから、)1790年に亡くなる直前まで、関税局で週4日働くことで、この難題を回避したわけだ。・・・」(C)
 
 「・・・スミスは、ヒューム<(後出)(コラム#497、498、517、1254、1255、1257、1259、1699、2279)>同様、キリスト教徒ではなかった。・・・」(B)
 (2)スコットランドとスミス
 「・・・<わずか>100万人の人口の、しかも、飢饉、神政政治、及び内戦の記憶覚めやらぬ<スコットランドという>国が、1730年以降、次から次へと知的スターを輩出し、そのうちの二人で親しい友人同士であったデーヴィット・ヒュームとアダム・スミスは、近現代における最も偉大な二つの頭脳であると来ているの<は驚異>だ。
 <その>18世紀のスコットランドは、イギリスの2に対し、小さいけれど、4つ(短期間5つだった)もの大学を擁していた。・・・」(B)
 「・・・大きな問題は、近現代の評論家達や書評子達がスミスの頃の<スコットランドの長老>教会の宗教的暴虐さについての認識を持っていないことだ・・・。
 狂信者達が大勢おり、ふるまいや言論において言うことをきかないように見えた人々に付きまとったものなのだ。・・・
 ・・・これに加えて、スミスの母親は敬虔なキリスト教徒だった。
 他方、スミスはそうではなかったところ、<宗教的な>議論を引き起こすような著作を出版することは彼女を動転させることになったことだろう。
 彼女が1784年に亡くなった後、スミスは『道徳感情論』(1789~90年)の第6版で多くの修正を加えたが、その全ては同じ方向の修正だった。
 すなわち、<彼は、>彼女がまだ存命中に出版されたところの、過度にキリスト教神学的な色調を弱めるか削除したのだ。・・・」(C)
(続く)