太田述正コラム#4182(2010.8.9)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続々)>(2010.12.14公開)
1 始めに
今度は、やはり読者の宮里立士さんがコピーを送ってくれた月刊『現代』2008年9月号掲載(44~57頁)の徳本栄一郎(1963年生まれ)の論考、「昭和天皇が「開戦阻止」を託した外交官・・クレイギー駐日英大使・・の悲劇–戦後63年目の真実 太平洋戦争は本当に不可避だったのか–」をとりあげます。
いや、より正確に申し上げた方がよさそうです。
この論考の中で引用されている史料を紹介するとともに、これら史料をもとにした徳本のピンボケ注釈にダメ出しをするのが本稿の目的です。
(なお、便宜上、「クレーギー」は「クレイギー」に統一表記した。)
2 引用されている史料
「陸軍大臣杉山元:日本が中国で領土的野心を持たないこと、外国権益は最大限尊重することを強調し、「われわれの見解が理解されていないのは非常に遺憾です。日本軍は日本のみならず、極東、世界のために戦っています。このままでは、ボルシェヴィズムの脅威が中国から日本にも波及してしまいます」
クレイギー:「この戦争で、かえってボルシェヴィズムの影響は増していますよ。もし日本が誤解されていると思うなら、ブリュッセルの9カ国条約国会議の場で、世界を納得させるべきでしょう」」(1937年10月21日、於市ヶ谷の陸軍省。1937.10.22英国外務省報告)
→杉山の発言は、当時の日本人の間でのコンセンサスに近いものを踏まえたところの、日本陸軍内のコンセンサスを忠実に代弁したものです。それに対するクレイギー答えの前段は、英本国向けの避雷針であり、クレイギーは杉山と同じ考えであったと私は考えています。後段は、クレイギーが、英米支3国(及びソ連)以外の諸国に日本(陸軍)の考え方を広報宣伝することの必要性、重要性を指摘したものと解することができます。(太田)
「英国政府と英国民が、中国と蒋介石に同情の気持ちを抱くのには驚かない。(中略)中国に持つ権益を考えると、彼等に同情するのも理解できる。しかし、アンフェアな反日煽動には、われわれも黙っている訳にはいかない」(1937年10月1付日参謀補本部第二部部長本間雅晴のクレイギー宛書簡)
→本間は、2度の英国滞在経験・・2度目は駐在武官・・のほか、駐印武官の経験もあり、英国を熟知していたところ、ストレートに英国政府を批判したわけですが、クレイギーは内心忸怩たるものがあったはずです。(太田)
「・・・いわゆる『穏健派』は、日本民族の優秀性、産業<(industriousness=勤勉性、の誤訳?(太田))>、勇気でもって、東洋の支配的地位を占めたいとする点は急進派と変わらない。しかし、それは戦争でなく、アングロ・サクソン諸国と協力して実現可能と信じていた」(クレイギー著『Japanese Mask』)
→クレイギーは、駐日大使当時は、避雷針的に、日本人を「急進派」と「穏健派」に分けて本国に状況説明を行っていたところ、彼が自由人となってから書いたこの回顧録では、そんな2派は存在しなかったのであり、日本人の間で、戦後米国が世界で展開することとなる新米帝国主義ならぬ、「<米国ならぬ日本>民族の優秀性、勤勉性、勇気で、<世界ならぬ東洋の>支配的地位を占め」、「ボルシェヴィズム<等の民主主義独裁>の脅威」から(世界ならぬ)東洋を守るという帝国主義、を(世界ならぬ)東洋で推進すべきである、というコンセンサスが成立していたことを暗に示唆するとともに、当時の日本人には、アングロサクソン諸国(英米)がかかる日本流帝国主義の展開に協力してくれると信じていた馬鹿者とそんなことを信じなかった利口者とがいただけだと喝破した、と私は受け止めます。(太田)
「日本と英国は、同盟を結んだ時期、並外れた繁栄と相互協力を実現してきました。(中略)現在の両国間の争いは、多くが誤解と虚偽の伝聞によるもので、それを第三者が増幅させています。・・・
日本と英国は共に、大陸の縁に位置する海洋国家であります。方法こと違え、両国は共通の目標を目指しています」(クレイギーのスピーチ。1940.3.28、於帝国ホテルでの日英協会昼食会)
→これは、文字通り、クレイギーがホンネを吐露しつつ、暗にチャーチル英政権の対日政策を批判したものである、と言ってよいでしょう。(太田)
「続いて、吉田茂前駐英大使が壇上に上がった。彼はかつて日英同盟の時代、極東で平和が維持されたことを繰り返し強調した。」
→問題は、このスピーチは、吉田が愚かなことに本当にそう思い込んでいて、その思い込みを国内向けに語ったものであって、対外向け、とりわけ英国政府への批判であったとは考えられないことです。
彼が、戦前においては、日英同盟(の事実上の継続)を唱えて物理的に国を滅ぼすことに重要な役割を演じ、更に、戦後においては、日米同盟を唱えて(日本を米国の属国にし、)精神的に国を滅ぼすことに最も重要な役割を演じることになったことは、皆さんご承知のとおりです。(太田)
「クレイギー大使のスピーチは、当地<(米国)>で驚きを持って受け止められている。特に『日英は共通の目標を目指している』などの部分・・・」(3.30駐米英国大使から英外務省宛緊急電報)
→本国にチャーチルあり、米国にこんな駐英大使あり。これでは大英帝国が、その後短時間のうちに瓦解したのもむべなるかな、と思いますね。(太田)
「米国でのクレイギー批判の記事を配信した・・・ロイター通信は、・・・同日、・・・「英国は『極東のミュンヘン』を認めることで、これまで米国が中国に行ってきた支援を台無しにしかねない」とのコメントを紹介し・・・た。」
→その米国が支援し続けたところの腐敗ファシスト政権たる蒋介石政権を戦後まもなく米国は見限ることになり、支那では中共政権が樹立されるわけです。(太田)
「一言で言えば祖父は、平和主義者というより現実主義者だったと思います。日本は皆が思うより手強い<から日本が参戦すれば大英帝国は瓦解しかねない>。<だから、>英国にとって米国の参戦は不可欠だが、それには日本を巻き込まない方法が必要と考えていました。残念ながら当時、英国政府はそう受け取らず、祖父を冷遇したようですが」(クレイギーの孫娘のプレサント(36歳)の証言。2008.1.23於ロンドン)
→クレイギーは出藍の誉れと言うべき子孫を持ったと言えるでしょう。
まさに、クレイギーこそ、真の知日派であると同時に、英国の国益を踏まえた、現実主義者だったのです。(太田)
3 終わりに代えて・・徳本のピンボケ注釈
この論考の中で、クレイギーの報告書が引用されていないところを見ると、徳本は、私見では最も重要であるところの、この報告書を読んでいないのでしょうが、だからと言って、以下のような彼によるピンボケ注釈が許されてよいわけがありません。
「クレイギーにも弱点があった。・・・<現在の例を引き合いに出せば、>欧米への強い敵意を抱く<イスラム>急進派に対し、<イスラム>穏健派は海外経験も豊富で、理想の交渉相手に見られやすい。
だが彼ら穏健派は「2W」、つまり「ワイズ・バット・ウィーク」(賢いが弱い)だという。思想や理念は立派だが、国内での影響力に欠けるのだ。」
→徳本自身が、クレイギーが、事実上、戦前の日本人を(対アングロサクソン)急進派と穏健派に分けて考えるのは、両者は共通の「思想や理念」を抱いていたことから意味がなかった、と言明したに等しい話を引用しているというのに、何を寝ぼけたことを徳本は言っているのでしょうね。そもそも、イスラム過激派になぞらえるなど、当時の日本人に余りに失礼です。(太田)
「なぜチャーチルは、クレイギーの意見を無視したのか。
・・・あの時チャーチルは、・・・ドイツ打倒<のため、>・・・何が何でも米国を参戦させる必要があった。・・・
彼は・・・冷酷なまで現実主義の政治家<だ>った。」
→徳本自身が、クレイギーの孫娘のクレイギー評・・それは、チャーチルが現実主義の政治家でなかったことを示唆するものだ・・を引用しているというのに、どうしてこの孫娘の言を批判しないまま、その言と正反対のチャーチル評、つまりはクレイギー評を徳本は悪びれることなく書き記すことができたのでしょうか。
それにしても、徳本は、本当に、大英帝国を瓦解させたチャーチルが現実主義の政治家であると思っているのでしょうか。(太田)
吉田ドクトリンがいかに日本人を家畜化し、その知的能力を荒廃させたかは、徳本栄一郎なるライターのこの論考を見たでけでも思い知らされます。
まことに痛ましいとしか形容のしようがありません。
(必要に応じ、これまでのクレイギーに関する一連のコラム・・#3794、3796、3956、3958、3960、3964、3966、3968、3978、3980・・を再読して下さい。)
ロバート・クレイギーとその戦い(続々)
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