太田述正コラム#4212(2010.8.24)
<落第政治家チャーチル(その4)>(2010.12.21公開)
 新しい書評が出てので、さっそくこれ↓も用いることにしました。(太田)
H:http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2010/0823/Churchill-s-Empire
(8月24日アクセス)
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 (4)意に反して大英帝国を崩壊させたチャーチル
 「・・・エドワード国王の時代の植民地省の若き閣外相(youthful minister)の時、彼の政治的敵対者達は、チャーチルを小イギリス主義者であって大英帝国にとって危険であると描写した。・・・」(C)
→若い頃のチャーチルは「進歩」的だったのでしょうか。(太田)
 「・・・チャーチルは1897年に・・・行った講演で次のように述べている。
 「<大英帝国はもう終わりだとの>これらの不吉の予言者達を信じることなく、彼等の陰鬱なる不吉な予言に対しては、それがウソであることを、我が人種の精力と活力は健在であって、我々の決意は、我々がイギリス人として我々の父親達から相続した大英帝国を支え続けることを、我々の行動でもって示そう」と。・・・」(F)
 「・・・彼は<(いつの時点かは不明だが(太田)>プライベートには余りにも率直であり、「「大英帝国に手を触れるな」というのが我々の確言であって、大英帝国は、国内のお涙頂戴の商人達やいかなる肌色の外国人達を満足させるために、弱体化させたり名声を汚したりしてはならない」と記している。・・・
 チャーチルは、大英帝国は、英国が指導的大国と見なされることを確実にする唯一の物であると信じていた。
 仮に大英帝国が消滅すれば、英国もまた世界舞台における位置を失う」とも。・・・」(H)
→恐らく、チャーチルの本心は一貫してこういった感じであって、英本国内外の人々の物の見方の方が変化(「進歩」)しただけなのでしょう。(太田)
 「・・・チャーチルは、自己満足的な英国のエスタブリッシュメントよりもはるかに早くナチスの脅威を見て取っていたし、彼の並外れたリーダーシップは欧州においてヒットラー主義を打ち負かす決定的要素であったのではなかろうか。
 トイは、ニコルソン・ベーカー(Nicholson Baker)<のように、>・・・チャーチルが大英帝国を救うことだけに関心があって、ヒットラーと取引する可能性がなきにしもあらずだった<とは考えない。>
 チャーチルは、それよりもはるかに深い嫌悪感をナチズムに対して抱いていたというのだ。
 チャーチルはならず者であったかもしれないが、彼は<ヒットラーという、>よりひどいならず者を見出したのであり、我々は歴史における<この彼の>ひらめき(wrinkle)のおかげで今日、自由を享受できているのかもしれない。・・・」(A)
→ところが、目の前の欧州でドイツが再び興隆してくるのを見るや、大英帝国が形成される以前からの、イギリスの欧州分割統治本能にチャーチルが目覚めてしまい、大英帝国の力の全てを注ぎ込み、なおかつ「仇敵」たる米国まで引っ張り込んでナチスドイツを打倒するという、チャーチル自身の価値観に照らせば本末転倒の政策を彼は追求します。
 その結果、ナチスこそ打倒できたけれど、大英帝国は崩壊し、しかも、ナチスドイツと同等以上に恐ろしいソ連/共産主義の勢力の大伸張を招いてしまうのです。(太田)
 「チャーチルは、間違いなく、大英帝国を第二次世界大戦において連合国側へと召喚した。
 <既に第二次世界大戦が始まっていた時に>首相になった時、彼は、「我々の国の生涯、そして我々の帝国の生涯における厳粛な時」について語った。
 しかし、第二次世界大戦が戦われた大義(cause)たる人間の自由は、不可避的に大英帝国を構成しているのは誰で、その彼等が自由を全くもって享受していない、という問題を俎上に上らせた。
 チャーチルは、彼が1940年に述べたように、「世界中の国民の間で、我々だけが、帝国と自由とを結合させる手段を発見した」と信じていた<のだが・・>。・・・」(D)
 「・・・<マックス・へースティングスが記したように、>チャーチルの大英帝国並びにその人々に対する見解は、米大統領(フランクリン・ローズベルト)に比べ、いや当時の標準と比較しても非啓蒙的な代物だった・・・。・・・」(D)
 「・・・黄金海岸<(ガーナ)>のナショナリストのクワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah)は、後に記した。
 「地球の四囲に向けて放送されたところの、自由について語られた美しくも勇ましい言葉は、思いもかけない所で、種が蒔かれ芽を出したのだ」と。・・・」(F)
→「世界中の国民の間で、我々だけが、帝国と自由とを結合させる手段を発見した」だけでなく、実践していたのが日本人であり、その日本帝国でした。
 「自由」の米国と手を結び、大西洋憲章で自由を謳ったことが大英帝国の崩壊に寄与した部分もあったかもしれませんが、一番大きいのは、日本による東アジアの大英帝国領の奪取であり、日本軍のインド侵攻でしょう。(太田)
 「・・・チャーチルが、大英帝国を救おうとして行った戦いが逆説的にその喪失へと導いたのだ。・・・」(E)
→そうではなく、チャーチルは、目的であるはずの大英帝国を手段として対ナチスドイツ戦争を遂行したために、必然的に大英帝国を喪失へと導いたのです。(太田)
 (5)痛惜の念にかられるチャーチル
 「・・・若きウィンストンは、彼の生涯を大英帝国の維持のために捧げると誓った。
 軍閥として、ヒットラーとの抗争の間、彼は、彼が同様に擁護したところの英米同盟を危うくすることを意味したにもかかわらず、大英帝国を維持しようとした。
 <だからこそ、>一人の老人として、彼は自分の生涯が無に帰したことを嘆いた。
 「私が信奉していた大英帝国はもはや存在しない」と。・・・」(E)
 「・・・彼は、米国ではファシズムと共産主義への反対によって最もよく知られているかもしれないが、その帝国主義への擁護において悪名高い<人物だ>。
 「我々は、我々のもの<(帝国)>を維持しようと本気で思っていた」と彼は1942年に忘れえぬ発言をしている。
 「私が国王の筆頭大臣になったのは、大英帝国の解体(liquidation)を主幹するためではない」と。・・・」(E)
 「・・・彼の生涯の終わり近くになって、チャーチルは、彼の私的秘書のアンソニー・モンターギュ=ブラウン(Anthony Montague-Brown)に、「私は、生涯全てを通じて懸命に働き、大変多くのことを成し遂げたけれど、結局のところ、何も成し遂げなかった」と伝えた。・・・」(F)
→このチャーチルの痛切な悔恨は、意に反して吉田ドクトリンが成立し、それを日本人が墨守し始めたことについての吉田茂の痛切な悔恨を思い起こさせますね。
 決定的な時期に英国がチャーチルを、そして日本が吉田をそれぞれ首相として持ったことは、それぞれの国民にとって何という不幸であったことでしょうか。
 その結果、大英帝国は余りにも過早に崩壊してしまったわけですが、日本もまたひょっとすると崩壊すべく運命付けられてしまったのかもしれません。(太田)
(続く)