太田述正コラム#4404(2010.11.28)
<映画評論18:黒い罠(その2)>(2010.12.28公開)
そういうわけで、この映画は、以下のように評価されています。
「とりわけ人種問題に関して、権力の濫用に関する適切な諸思想が盛り込まれており、当時の最も進歩的な映画の一つであると言える。・・・
今であれば、<メキシコ人に扮したはずなのに、>アングロサクソン的(Anglo)な<チャールトン・>ヘストンの演技は大量抗議の嵐を引き起こしただろうが、それは、まさにガッツのある(gutsy)進歩的な営みだったのだ。
・・・さんざん悪口を言われたにもかかわらず、当時のリベラルな市民権活動家たるヘストンを起用したことは、・・・実際には、おおむね、見事にうまく機能ているのだ。・・・
政治的に、この映画は、国境における政治、権力の濫用、そして人種の関係について、大胆なやり方でコメントを加えており、現在、これまでにも増して現代的に感じられるところだ。・・・」(D)
すなわち、ウェルズは、メキシコの捜査官の方が米国の捜査官よりも権力の行使において抑制的で清潔であり、また、有色人種の男性が白人の女性と結婚しても何等問題はない、という具合に、当時の米国人が抱いていたメキシコないし有色人種に関する社会通念というか偏見について、この映画ではポジとネガを真逆に「ひっくり返」して見せることによって、この醜い社会通念ないし偏見を糾弾しているわけです。
蛇足ながら、この映画のラストシーン近くで、ウェルズは、ポジとネガをもう一度真逆に「ひっくり返」して見せます。
証拠をでっち上げて逮捕したメキシコ人が犯行を自白したことから、ウェルズ演じる悪徳警官の、このメキシコ人が犯人であるとの「直感」が正しかったこと、が判明するのです。(A)
これは、権力の行使において抑制的で清潔であることが、常に妥当性があるとは限らないことを示唆しているわけであり、ウェルズは、実体的正義の追求(糾問主義)を旨とする欧州的司法が必ずしも手続的正義の確保(弾劾主義)を旨とするアングロサクソン的司法よりも優れているとは限らない、と言っていることになります。
そもそも自白したからと言って犯人であると断定などできないわけですが、いずれにせよ、証拠をでっちあげてまでして容疑者を追い詰めるなど言語道断であり
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/2006043000000/
(11月28日アクセス)、この点に関する限り、ウェルズの上手の手から水が漏れた、と言わざるをえません。
もう一つ、ウェルズの限界は、それが、当時の米国とメキシコ(ないし有色人種の世界)に共通する社会通念ないし偏見であったからか、男女役割分担を真逆にすることまでは考え及ばなかったことです。
「<ヒロインの>スーザンは<夫の>ヴァルガスについて話があると言われ、メキシコ人の若者に<メキシコ領内の>別のホテルに案内される。そこで彼女を待っていたのは、ヴァルガスたちが捜査中のグランディ一家の幹部ジョー・グランディ<(拘留されていた頭目の弟)>だった。ジョーはスーザンに対して、拘留中の彼の兄・・・を釈放するように脅迫するが、彼女は取り合わない。」(A)
「・・・彼女の役割は<ヘストンら>より小さかったけれど、<ヒロインを演じた>ジャネット・リーのユーモア、性的魅力、及び勇気の混成物たる性格は、この映画に計り知れないプラスになっている。・・・」(D)
この短い紹介及び評論だけからも何となく分かるのではないかと思いますが、米国から国境を越えたばかりのメキシコ領内という誰でも知っている危険な地域で、(更に、夫からこの地域の危険性について重々聞かされていたはずの)彼女が、見知らぬ男について行くことは、彼女の「勇気」どころか、「蛮勇」を物語っていますし、それ以降の彼女は、全く無力な横たわりっぱなしの存在として描かれ続け、もっぱらその「性的魅力」でこの映画に彩りを添えるだけの存在に堕してしまいます。
(「ユーモア」については、ほとんど彼女が示した記憶がありません。)
これは、この映画(1958年)とほぼ同じ頃(1951年)に封切られた英米合作映画の『アフリカの女王』におけるイギリス人たるヒロイン(コラム#4396)とは180度異なる女性像であり、ウェルズ(注2)の潜在意識においてイメージされている女性像が、イギリスの人々の潜在意識下のそれとくらべて、いかに女性差別的なものであったかを物語っています。
(注2)George Orson Welles (1915~85年)。米国の映画監督、映画俳優、シェークスピア演劇俳優、声優、演劇監督、脚本作家、プロデューサー、奇術師。
http://en.wikipedia.org/wiki/Orson_Welles
(11月28日アクセス)
3 終わりに
果たして、ウェルズの自己実現的予言と見るべきなのか、単に当時の状況を模写しただけなのかはよく分かりませんが、この映画で描かれる、あたかも無法地帯のようなメキシコ領内(注3)、そして、米墨国境における(主人公や悪徳警官が捜査する)麻薬(注4)と(ヒロインが打たれる)疑似麻薬(注5)をめぐる捜査機関と麻薬組織との死闘は、まるで現在の話のようです。
(注3)「麻薬「戦争」といい、<メキシコ領内を>通過<する米国への>移民希望者への加害といい、メキシコ、ひいては中南米は異界かって感じだよね。」(コラム#4081)、「<メキシコの>地方警察、タクシー運転手、都市役人らはしばしば賄賂を要求<する。>」(コラム#4126)
(注4)クリントン米国務長官は、メキシコの麻薬組織は米国とメキシコに対する叛乱勢力になっていると言える、と語ってメキシコの政府とメディアの大反発を招き、オバマ大統領が謝罪した。メキシコ政府は、米軍や米国の麻薬捜査機関がメキシコ内で活動することを一切認めていない。そもそも、米軍とメキシコ軍は、友好国たる隣国であるにもかかわらず、これまでいかなる共同訓練も実施したことがない。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/25/AR2010112502233_pf.html
(11月27日アクセス)
(注5)メキシコの犯罪組織は、「合法的」に薬品や化学物質を外国から輸入してメタアンフェタミン(methamphetamine)を製造しており、近年急速にその生産量が増加しつつあり、それが米国に大量に流れ込んでいる。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/23/AR2010112303703_pf.html
(11月25日アクセス)
(完)
映画評論18:黒い罠(その2)
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