太田述正コラム#4220(2010.8.28)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その2)>(2010.12.30公開)
(2)ムハンマドのイスラム教
「・・・イスラム教では、神を<キリスト教等のように>父とし、<神が>罪人達に無償の好意と永久の愛を与えるとする考えには尻込みする。
古と現在のイスラム教徒の多くは、アラーは、彼に従う人々に、ユダヤ人、キリスト教徒、その他の「不信心者(infidel)」に対する聖戦を追求せよと命じたと明言する(シューラ2:193、8:12、17、41、60、9:5、14、29、123、及びハディス1:25、4:196、等々)。
「不信心者」に対する戦争による攻撃について、27回先頭に立ったり命じたりしたのがムハンマドその人であったことを覚えておいて欲しい。
彼は、彼等の最高の法授与者として、彼に反対し彼を預言者として受け容れなかった900人のユダヤ人の首をはねるように命じた。・・・
「イスラム教徒達よ、人生の意味を聞け。
一番重要なことはイスラム教そのものだ。
その柱はラカティン(Rakatin)祈祷(prayer)(注1)だ。
そしてその頂点は聖戦だ。」(ハディスにおけるムハンマドの言)
(注1)ラカティンの意味については確認できなかった。(太田)
「彼等は長く生き、繁栄してきた。
しかし今、我々は彼等の土地に侵攻し彼等との境界領域を切り取るのだ」(シューラ21:41~46)
ムハンマドは、「女性の1人の証人は男性の半人分に相当しているのではないか」と尋ねた。女性は「はい」と答えた。彼は、「それは女性のアタマの欠陥のせいなのだ」と言った。(ハディス巻3:826)・・・
アラーの使者はこう命じた。
「不信心者(unbelievers)と戦い彼等を殺せ。
石でさえもが、イスラム教徒よ「ここへ来い。不信心者(infidel)が隠れているぞ。彼を殺せ。すぐに殺せ」と言うまで追いかけろ」と。(シューラ16:13)・・・」(C)
→イスラム教の原点は野蛮そのものであったということです。(太田)
(3)合理論との邂逅
「・・・最初の4代のカリフはアラビア半島にとどまっていた。
最初は、彼等はその部隊を征服した都市の外に隔離した。
イスラム教徒達が外国の文化や信条によって汚染されないようにだ。
ウマイヤ朝カリフが660年前後に樹立された後、新しい帝国の中心はダマスカスに移り、その後、アッバース朝はそれをバグダッドに移した。
彼等は、隔離を維持することができず、それが当時のキリスト教の諸弁証(apologetic)の中に染みこんでいたことから、哲学が第二の自然となっていた人々と邂逅した。
そして、キリスト教徒達との会話の中で、彼等はイスラム教信条を推進ないし守るための哲学的道具を発展させる必要性を感じた。
彼等は、自分達自身の諸弁証を必要としたのだ。
その時疑問が生じた。
自分達が彼等の論理学や哲学のような道具を用いることは正当化できるのか、また、これらの手段を通して自分達が知ることが許されるものは何か、という疑問が。・・・
ムウタジラ派(Mu’tazilites)(注2)は、理性の優越(primacy of reason)を主張し、人の第一番目の義務は理性的行動に従事し、それを通して神を知るに至ることである、と主張した。
(注2)バスラとバグダッドで8~10世紀に栄えたイスラム神学。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mu’tazili (太田)
彼等は、啓示を理性と適合的な形で理解することが自分達の義務であるとも考えた。
それにより、コーランの中の何かが理性と矛盾するように見えた場合は、それを字面通りに解してはならないと考えたのだ。
だから、それは隠喩(metaphor)ないしは類推(analogy)と受け止めねばならないと。
ムウタジラ派は、神自身が理性であるとし、人間の理性は彼からの贈り物であって、人間は彼を彼の被造物を通して知ることができるとした。
偉大な神学者達の一人であるアブド・アル=ジャバール(Abd al-Jabbar<。935~1025年
http://en.wikipedia.org/wiki/Abd_al-Jabbar (太田)
>)は、「理性と合致することを実行に移すのはあなたの義務だ」という声明を発した。
それは、ムウタジラ派は理性によって善と悪、正義と不正義を知ることができるとしたからだ。
この知識はイスラム教徒だけでなく、全ての人が身につけることができる。
よって、あらゆる人にとって、理性を働かせ、善を知るに至り、それに拠ってふるまうことは義務なのだ。
理性によって道徳的知識に到達することができないとすれば、どうやって神は人間が道徳的にふるまうことを期待できよう。
ムウタジラ派は、カリフのアル=マムン(al-Ma’mun<。786~833年。カリフ:813~833年。有名なカリフのハルン・アル=ラシッド(Harun al-Rashid)の息子
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Ma’mun (太田)
>)によって後援(sponsor)された。
彼は、イスラム史の中でギリシャ思想の最大の支援者だった。
彼は、アリストテレスが彼の前に現れる夢を見たと言った。
彼は、この哲学者に「善とは何か」と尋ねたところ、アリストテレスは、「それは理性的に善であるものだ」と答えた。
そこで、アル=マムンは、ムウタジラ派という神学の理性派を抱懐し、最初のアラブの哲学者であるアル=キンディ(al-Kindi<。801?~873年。ギリシャ/ヘレニズム哲学をアラブ世界に紹介した博学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Kindi (太田)
>)も後援した。・・・」(E)
→野蛮だったイスラム教が、ギリシャ世界との邂逅を通じて野蛮を脱した時期があったということです。(太田)
(続く)
どうしてイスラム教は堕落したのか(その2)
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