太田述正コラム#4242(2010.9.8)
<アナーキズム(その3)>(2011.1.7公開)
(5)評価
「・・・カール・マルクスが1872年にミハイル・バクーニン(Mikhail Bakunin)(注)を第一インターナショナルから追放させた時以来、<アナーキストに比べて、>より規律のある革命家達は、アナーキスト達を、新しい社会秩序を構築する能力のない風来坊(loose cannon)達であると描写した。
(注)1814~76年。ロシアの貴族の家に生まれる。第一インターナショナル(International Working Men’s Association)でマルクスの選挙参加論に反対論を唱え、放逐される。その後も革命運動に従事しつつ、マルクスのプロレタリア独裁の考え方に反対する論陣を張る。スイスのベルンで死亡。チョムスキー(Noam Chomsky)はバクーニンの流れを汲む。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Bakunin (太田)
アナーキスト達は、「行為(deed)によるプロパガンダ」<を実践すること>によって<かかる描写を>助長した。
この文言は、少人数の集団やたった一人の個人によって遂行された爆破や暗殺をすぐに連想させるようになったところの、蜂起的集団行為を促進するために、1876年に作り出されたものだ。
アナーキスト達によるマルキシズムの専制的諸傾向に対する先見性のある警告、及び彼等の<提示した>人道的社会主義に係るもう一つのビジョンは、アナーキズムをテロリズムと同一視させることを促進したところの暴力行為によって信用が失墜してしまった。・・・」(G)
「・・・アナーキズムと今日のテロリズムとが一つのものであり同じものであると言うのは間違いだろう。
アナーキスト達は、宗教的またはナショナリスティックな信念ではなく、ユートピアに対する強烈な信条によって掻きたてられていたからだ。
このユートピアは、全ての既存の諸制度が破壊された後においてのみ成就できるとしていたわけだが、彼等の夢は、彼等の行動が致死的なものであったのと同じくらいロマンティックなものだった。・・・」(A)
→この書評子は、「宗教的」なものを狭く解しすぎており、それは(私見によれば、カトリシズムの最初の世俗的変形物たる)「ナショナリスティック」なものを「宗教的」なものと並列にして論じているところに現れています。
また、そもそも彼が、「ナショナリスティック」なものを、無条件で「インターナショナリスティック」なものよりも見下しているかのように聞こえる点にも問題があります。(太田)
「・・・アナーキスト達が、どのように、高度に発達した殉教主義(martyrology)を含むところの、「急進的宗教の諸属性を継受した」かについて、バターワースは、彼等が自分達自身を「進歩へのマニ教的闘争の抑圧された英雄達である」と見ていたと論評する。
その宗教に対する敵意にもかかわらず、アナーキズムは、それがそのふりをしていたところの科学に立脚した世界観ではなくして、一つの信条(faith)だったのだと。・・・」(B)
→この書評子はジョン・グレイ(John Gray)です。いかにも彼らしい評釈ですね。(「政治的宗教について」(コラム#3676以下)参照。)
3 終わりに
アナーキズムは、ジョン・グレイばりには政治的宗教の一つ、ということになるのでしょうが、私ばりに言えば、カトリシズムの近現代的変形物の一つではあっても、(いかに形だけのものであれ)選挙も、そしてまた独裁をも否定する以上、民主主義的独裁の範疇には属さないことになります。
このように、選挙を否定する以上は正当化の根拠を欠き、また独裁を否定する以上はふるえる力に限界があることから、アナーキズムは、ついに大きな勢力たり得ず、今日に至っている、と考えられます。
当然、彼等が行使した暴力も散発的なものに終わったわけですが、いずれにせよ、アナーキズムの暴力が、欧州はもとより、欧州の外延たるロシア、更には、アングロサクソンと欧州のキメラたる米国においても生起したというのに、イギリスでは全く生起していないのは面白いですね。
イギリス(とスイス)は、(マルキストのみならず)アナーキスト達の避難所であったので、彼等は恩義ある地では暴力行使を控えたものと思われます。
ところが、現在のイスラム・テロリスト達は、イギリスにおいても、遠慮容赦なく暴力を行使しています。
これは、アナーキスト達とは違ってイスラム教徒達は必ずしも好んでイギリスにわたってきたわけではない、ということと、イスラム教の本来的野蛮性とによるのかな、という気がしています。
(完)
アナーキズム(その3)
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