太田述正コラム#4260(2010.9.17)
<チェンバレンの対独宥和政策の評価>(2011.1.8公開)
1 始めに
チェンバレンの対独宥和政策について、読者のXXXXサンがこのたび送ってくれた、池田清(注)の青山大学における最終講義である「英帝国と宥和政策の論理」(『青山国際政経論集51号 2000年9月)を手がかりに、考えて見ることにしましょう。
(注)元海軍中尉。「摩耶」に乗船中、レイテ沖で撃沈。伊47号潜水艦で出撃中に終戦。東大卒。青山学院大学教授。著書に『日本の海軍』『海軍と日本』など。
http://www.kawade.co.jp/np/author/01090
2 池田清の指摘
「チェンバレン<は、>・・・国際連盟によるイタリアへの経済封鎖、経済制裁などは「真昼の狂気沙汰」であり、・・・地域的協定を通して紛争を局地化<するとともに>(56頁)・・・ドイツ、イタリア、フランス、イギリス間の個別的協定を基礎にしたヨーロッパの小協調–<対するに、>19世紀的なヨーロッパ協調<が>大協調<–>・・・の可能性を探るほうが、英帝国にとっては賢明であると考えたのであります。・・・
この四大国協調体制の新構築には、ソ連、アメリカ合衆国・・・の参加は、最初から・・・念頭にはなかったのであります。・・・
つまりチェンバレンは、英仏同盟という既存のヨーロッパ体制や国際連盟を放棄してまでも、ドイツ、イタリアとの平和的な了解に達しようと意図したのであります。」(特に断っていない限り53頁)
→チェンバレンが、ソ連の力を過小評価していた(後出)点はともかくとして、共産主義を敵視していたこと、そのことにより、ソ連を英国の対ファシズム戦略の埒外にとどめようとしたことは正しかったし、また、彼が米国を孤立主義的にみていた(後出)点はともかくとして、米国の経済的支援(武器の支援)に頼った上、米国の軍事力による支援にも頼ったことで、大英帝国の覇権を過早に米国に完全に譲ることになったという事実から後付で考えれば、米国を英国の対ファシズム戦略の埒外にとどめようとしたこともまた正しかった、と言うべきでしょう。(太田)
「イギリス海軍は伝統的にドイツ海軍力を過小評価しておりまして、極東における日本海軍の脅威をより重視しており、財政的にほとんど不可能と考えられたにもかかわらず、海軍力増強とシンガポールの基地防衛強化とを強調して止まなかったのであります。そこでイギリス海軍当局としては、財政的にみて海軍力の増強が期待できず、またシンガポール防衛力の整備も大幅に遅れていた状況からみて、日独いずれかとの関係改善を必要とし、仮想敵国を一国に絞る必要があったのであります。1937年2月の帝国防衛委員会において防衛調整相のトーマス・インスキップ(T. Inskip)も、日本あるいはドイツのいずれかとの関係改善が急務であると指摘しております。この場合イギリス海軍としては、日本海軍の極東における脅威をより重視する伝統的な立場から、宥和の第一目標としてドイツを考えるべしと主張していたのであります。しかもこうした極東重視の観点に基づく対ドイツ宥和の立場は、1937年5月のジョージ6世(George VI)戴冠式の機会に開催された英帝国会議においても再確認されております。・・・
オーストラリア、カナダ、南アフリカ等・・・自治領諸国は、イギリス本国が国際連盟への忠誠と義務感に拘束されることに強く反対したのであります。」(54~55頁)
→xxxxサンが送ってくれた別の資料でもって別途コラムを書きますが、日英同盟を解消した結果、日本を英国の潜在敵国へと追いやってしまったことのツケに英国がどれほど苦しむことになったかが良く分かりますね。
チェンバレンは、2択において、日本との宥和をこそ最優先で目指すべきだったのです。そうしておれば、英国の軍事力を欧州周辺に結集することによって、ドイツに対する選択肢が広がっていたはずだからです。(太田)
「これに対して、アメリカをも含む全世界的な民主主義諸国の結束によって独裁者たちと対決<するという長期構想の下、さしあたり>・・・英仏ソ大同盟によるドイツ抑止<を図るものと>(60頁)・・・するチャーチル・イーデン構想<がありましたが、>この見解の対立に潜むものは、結局はヒットラー、ムッソリーニに対してチャーチルやイーデンとチェンバレンとが、違った人間像を抱いていたところにあります。イーデンが批判しておりますように、「独裁者たちに対するチェンバレンの評価は極めて楽観的過ぎて危険である」というものであります。」(特に断っていない限り56頁)
→ヒットラーやムッソリーニに対するチェンバレンの楽観的評価よりも、チャーチルらのスターリンないしソ連に対する楽観的評価こそが致命的であったことを、やはり後付ながら我々は知っています。
なお、チャーチルらの論理からすれば、日本を「全世界的な民主主義諸国の結束」に引き入れようとしなかったことはおかしい、ということにもなりそうです。(太田)
「イギリス・・・の対ソ不信感は、1936年以来スターリン(J. Stalin)によって断行された赤軍に対する大粛清でいよいよ深められておりました。情報によってイギリス・・・は、ヨーロッパに配備されている赤軍士官の約70%が粛清されたと推定しております。更にまた、ソ連からの積極的な支援の可能性については、・・・ソ連・ポーランド、ソ連・ルーマニア間の歴史的・民族的な関係からみまして、かなり疑問視されていたわけです。・・・
<加えて、>チェンバレンの対ソ不信感の一つの根源にコミュニズムとソ連とに対するその本能的・イデオロギー的な嫌悪感があった事実<が>認められます。なにぶんにもチェンバレンは資本家出身であります。しかしそれ以上に彼は、人民戦線政策を採用して以来のソ連の対外的声明と、現実のソ連の行動との間の矛盾に深い警戒真を抱いておりまして、また・・・ソ連の軍事力を、種々の情報から判断して信用していなかったのであります。」(59頁)
→上の方で示唆したように、チェンバレンがソ連に対して正しい認識を持っていただけに、彼がソ連の軍事力を過小評価したことは、彼が日本との宥和を決断しなかったこととともに、惜しまれます。
そのチェンバレンとチャーチルらに共通していたのは、ナチスドイツの脅威の過大視です。(太田)
「チェンバレン<は>・・・アメリカの孤立主義的傾向に<も>失望していたの・・・であります。イーデンが大いに期待していたアメリカの対イギリス支援を、アメリカから獲得できるとチェンバレンは楽観し得なかったのであります。」(59頁)
→後付けながら、結局、米国から、英国は十分武器支援が得られ、更には、チェンバレンの後任首相たるチャーチルの策略が功を奏し、英国は米国から軍事力による支援まで得られるに至るので、この点ではチェンバレンは予想違いをしていたことになります。
これは、米国についての理解不足というよりは、ローズベルトに代表される米国指導層の、英国を蹴落として名実ともに世界覇権国たらんとする野望の強さに気づかなかった、ということでしょうね。(太田)
「チェンバレンは、政情が定まらず軍事的に非力なフランスに対する不信感、ソ連の動きに対する猜疑心と、その軍事力に対する過小評価、アメリカや英連邦諸国の意向等を配慮して、結局においてチェッコ問題はもはや時機を失したと判断したのであります。」(60頁)
→これは池田の、当時までの通説に拠った思い込みに他なりません。
その後の研究を通じ、この時点では、英国の軍事力整備状況、就中空軍力整備状況は不十分であったこと等から、(日本との宥和がない以上は、)ヒットラーとの宥和は最適の選択であったことが明らかになっています(コラム#2102)。(太田)
「イギリスの歴史家ノーセージ(F.S. Northege)は、・・・「国際政治に対する・・・チェンバレン・・・の見解は、イギリス的思考様式の主流と一致するものであった。彼が宥和政策を発明したのではなかった。むしろ彼は、無意識のうちにこのイギリス国民一般が抱いている平和志向をその論理的帰結にまで推進したのである。この場合、イギリスの政治家たちの合理主義的前提条件が、野蛮な世界において妥当しないことが示されたのである」と・・・好意的に解釈しております。」(62~63頁)
「亡くなったケネディ・・・アメリカ大統領<は>・・・宥和政策を研究して論文を発表しております。彼によれば、70歳の老いぼれ<のチェンバレン>が50歳の血気盛り<のヒットラー>に結局騙されたんだ、というのがケネディの見解であります。」(60~61頁)
「フランスのラッファン(R.G.D. Laffan)という歴史家<は>・・・「宥和政策の失敗は、チェンバレンが人生の大半を政治ではなく、実業家のセンスで実業に費やしたということ、更に実業家としての個人的な敬虔で取引し業績を上げた方法が、そのまま国際問題でヒットラーとの交渉に当然適用できると、彼が錯覚したところにある」・・・<と>批判しております。」(61頁)
「ヴィクトリア王朝の最盛期の大英帝国に生まれたチェンバレンは、この時代の思考様式から終生逃れることのできない大英帝国主義者でありました。彼はイギリス人一般と同じように、新しい時代の到来を理解していなかったのです。そして19世紀とはまったく異なる国際的・国内的状況の中で、彼が19世紀的な古典的ヨーロッパ協調を追求し、しかも経済力や軍事力の背景を持たずに勢力均衡の政策が可能であると錯覚したところに、彼の悲劇があったといえます。・・・
チェンバレンの小国を犠牲にしての四大国の小協調体制によって英帝国の権益を保全するという試みは、・・・イギリス国民一般の意識と環境の間のズレを反映したものでありました。」(64~65頁)
→最初のノーセージによる全く持って「好意的」とは言えない批判、及び最後の池田清自身による批判を含め、これらのチェンバレンの宥和政策に対する批判は、既述のその後の研究に照らせば、チェンバレンに厳しすぎた、と言わざるをえません。(太田)
「チェンバレンは<ヒットラーとの>ミュンヘン協定と英独共同宣言とによって戦争を回避することができたと自信満満であり<、1938年9月末に>・・・着陸したヘストン空港において・・・戦争の回避に歓喜する群衆に向かって、・・・「我々の時代の平和」を勝ち取って来ました、と高らかに第一声を放ったのであります。なお議会は、365票対144票でミュンヘン協定を可決しております。但し、気骨の海相ダフ・クーパー(D.Cooper)は、「我々は徹頭徹尾敗北を喫したのだ」と憤激して即日辞表を提出しました。」(62頁)
→繰り返しますが、チェンバレンは、それなりに最適な選択を行ったのです。
これによって、チェンバレンは、英国の軍事力整備のための貴重な時間を稼ぐことができました。
しかし、1939年の対独開戦を経て1940年に首相として彼の後を襲ったチャーチルが、せっかくのチェンバレンのお膳立てを、結果的にすべて無にし、大英帝国を過早に崩壊させてしまった、ということになります。(太田)
3 終わりに
米国が日英同盟を1923年に解消させたことが、世界を不安定化し、日本と英国それぞれを苦境に追い込み、回り回って、1930年代終わりに英国から対独宥和以外の選択肢を事実上奪ってしまったというわけです。
改めて、米国の犯した罪に対する怒りがこみあげてきますね。
なお、池田が、もっぱら英国の視点から英国の対独宥和政策を論じているように見えることには違和感を覚えました。
せっかく日本を拠点に研究生活を送ってきた学者なのですから、当時の日本の視点から、当時の英国の視点にも配意しつつ、英国の対独宥和政策を論じて欲しかったと思います。
いや、そうでもしない限り、日本人が英国に係るこの種の研究に建設的に寄与することなどできるはずがないのです。
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–来週のTV取材について–
いつもお世話になっております。
私、Webサイト「たかじんのそこまでやって委員会」 を担当しておりますXXと申します。
・・・
今回、太田先生に取材させて頂きたいテーマと内容は下記の通りです。
テーマ:日本は真の独立国だと言えるのか?
◎現在も日本はアメリカの傘の下にあるのか?
◎日本は自ら憲法改正をするべきなのか?
◎日米同盟の「将来」とは?
など日米関係の現状と将来について先生のご意見をお伺いさせて頂きたいと考えております。・・・
チェンバレンの対独宥和政策の評価
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