太田述正コラム#4274(2010.9.24)
<日本の戦犯は誰なのか(その1)>(2011.1.11公開)
1 始めに
開戦前の日本には少なくとも2回逸機があったという話を何度かしてきました。
1936年の内蒙工作の時(コラム#4008)と、英国が一番困っていた1940年です。
本コラムは、読者のXXXXさんが提供してくれた、池田清「1930年代の対英観–南進政策を中心に–」(『青山国際政経論集』18号 1990年)に出てくる史実についての記述をもとに、後者に係る戦犯、つまり、1940年に日本が対英国(だけ)開戦をせず、千載一遇のチャンスを無にした責任者捜しをしようというものです。
2 戦犯は誰なのか
「<1926年12月5日当時、>・・・宇垣一成陸相は・・・日英の親善関係を・・・修復<し、修復された>日英友好関係に米国をも参加させ、中国のナショナリズムとソビエトのボルシェヴィズムに対抗する日英米の地域的な協調体制を創出して中国問題の局地化を考えていた。また幣原外交に続く陸軍出身の田中義一外交(1927年4月20日首相兼外相)において<は、>・・・幣原外交の、アメリカ重視のワシントン・・・体制維持とは対照的に、現実主義的<に、>二国間外交の重視、とくに中国における日英協調を重視した。<これ>は陸軍主流の見解を反映して<いた。>」(35頁)
→米国よりも英国(現実主義)を重視した陸軍は、米国(「理想」主義・・カギ括弧に入れた理由は省略)を重視した外務省よりまともでした。問題は、その英国が急速にまともではなくなりつつあったことです。(太田)
「満州事変<に対し、>・・・原則主義を堅持するアメリカに比べて、イギリスの対日態度はより柔軟であった。日本の国際連盟からの脱退(33年3月)、日英間の繊維貿易紛争で、日英関係は冷却の度を深めたが、・・・イギリス側では蔵相ネヴィル・チェンバレン・・・を中心にする対日「宥和」派によって、「日英不可侵協定」をめぐる動き<があった。しかし、>・・・日本側の積極的な協力がえられず、結局は不毛に終わった。・・・1937年2月登場した林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は・・・日英経済紛争の最大の理由は、安価な日本製紡績商品が集中豪雨的にインドをはじめ英帝国自治領へ進出したことによる、と判断し、また中国で「古くからイギリス人の占めていた権益を尊重すべきである」と考え・・・た<が、日華事変>の勃発<によって、この考えも実を結ばなかった。>」(37頁)
→日英間のボタンの掛け違い(コラム#4272)が、こんな感じで続くわけです。(太田)
「<1937年>6月3日裁可された・・・改訂帝国国防方針<には、>第三 帝国ノ国防ハ帝国国防ノ本義ニ鑑ミ、我ト衝突ノ可能性大ニシテ且強大ナル国力殊ニ武備ヲ有スル米国、露国ヲ目標トシ併セテ支那、英国ニ備フ<という箇所があった。>仮想敵国としてイギリスが新しく加えられた<のである。>」(42頁)
→1922年の日英同盟破棄から15年経ってようやく英国を仮想敵国にしたところに、まともでなくなりつつあった英国に対して日本の理解がなかなか追いつけなかった実態が露呈しています。(太田)
「<日華事変>直後、これにたいするイギリスの反応は遅かった。同年5月に成立したネヴィル・チェンバレン内閣は、ナチ・ドイツによるラインラント進駐(1936年3月)、イタリーのエチオピア併合宣言(同年5月)、スペイン内乱の勃発(同年7月)など、ヨーロッパ国際政治の地すべり的変動に直面し、これへの対応に忙殺されて、遠く離れた極東の情勢に十分に配慮する余地がなかった。急速に冷却・競合しつつあった日英関係を打開すべく、チェンバレン首相が特派したロバート・クレイギー大使が東京に赴任したのは、事件勃発の2ヶ月後(9月)である。
<彼の赴任後すぐに起こったのがヒューゲッセン誤射事件(コラム#4272)であり、>イギリスの対日態度は・・・硬化した。
この・・・事件と前後して、日本海軍による援蒋ルート遮断のための封鎖作戦も、日英関係を急速に悪化させる一因となる。チェンバレン首相は9月8日の内閣で、「この種の行為は、日本が文明諸国民の間で遵守されている正常な基準に達していないことを示す」、と平常からの対日嫌悪感を爆発させ<ている。>」(43~44頁)
→チャーチルよりははるかにまともであったチェンバレンですら、日本も、日本の支那での戦争目的も全く理解していなかったことが分かります。知日派のクレイギー大使やピゴット陸軍武官の苦労が察せられるというものです。(太田)
「他方、日本の民間右翼、言論界、陸海軍の急進派中堅将校、外務省革新官僚の間には、事変の経過とともに英国打倒論が高揚する。・・・
・・・全国的な反英運動が、2回にわたって展開された。第一次(1937年10月~38年2月)、第二次(39年7月~9月)である。とくに第二次反英運動は、日本陸軍の天津租界封鎖(39年6月)問題を解決するための日英会談(有田八郎外相とR.クレイギー大使)を目標に展開される。第一次は民間右翼に主導され「反ソ・反英」をスローガンに掲げていたが、第二次は、規模・動員数で第一次のそれに数倍し、また内務省・各府県当局に内面指導された総動員型の大衆運動で、主敵はイギリスに絞られていた。・・・
・・・東京有力10新聞社<は、1939年7月1日、>「対英共同宣言」<を発出する。>・・・
1933~34年の日印(英)の綿業に関するシムラ会商以来反英感情の濃かった関西では、打倒英国論がより高揚し、<39年8月18日、>全大阪日刊新聞社連合排英大会<で>決議<がなされる。>」(44~46頁)
→端的に言えば、1939年の中頃、日本の若手官僚(軍官僚を含む)及び世論は対英開戦論でほぼ一致するに至っていた、ということです。(太田)
「しかし・・・陸海軍上層部、とくに<第一次近衛内閣に引き続き平沼騏一郎内閣でも海相として留任していた>米内光政海相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF (太田)
、および政府は批判的で、<1939年9月2日に始まっていた欧州戦争(第2次世界大戦)>への不介入を9月4日声明し、日中戦争の早期解決を最優先課題とした。1940年1月<16日>に登場した米内内閣<(~7月22日)>は、政策的に親英米の色彩が濃厚で、欧州戦争に「積極的不介入」の方針を堅持した。米内は早くから、中国問題の解決はイギリスとの協調によってのみ可能であると確信していた。
「日本は支那に権益を有せざる他国(独・伊・<池田>注)と結び最大の権益を有する英国を支那より駆逐せんとするが如きは一の観念論に外ならず、又日本の現状より見て出来ることでもなし又為すべきことにあらず」
米内の発想は透徹した現実主義にあり、「事変以来財的に日本が英米の援助を蒙ったことは支那とは比較にならぬ、日本の世界貿易が大きければ大きい程日本は倫敦金融市場の世話になっている。だから、中国について排他独善にならず、「在支英米人から本国への文句が出なくなる様にしてやれば…英米の対日感情は自然に氷解する」という論理であった。・・・だが米内内閣は、日独伊の防共協定強化=三国同盟締結で日中戦争とヨーロッパ戦争との連動をはかる陸軍の策動によって、同年7月、あえなく退陣する。」(48~49頁)
→しかし、米内は精神分裂症かと言いたくなるのは私だけではありますまい。
米内は、
「近衛内閣時代、1937年(昭和12年)8月9日に発生した第2次上海事変において、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。翌14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに8月15日から8月30日まで、上海、揚州、蘇州、句容、浦口、南昌、 九江を連日爆撃し、これにより<日華事変>の戦火が各地に拡大した。また1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、「蒋介石を対手とせず」の第一次近衛声明に賛成している。」(ウィキペディア上掲)
と、日華事変の拡大に積極的な役割を果たし、当然、その日本の足を当時最も引っ張ったのが英国であることを自覚していたからこそ、
「1938年(昭和13年)11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。」(同上)と考えられるからです。
というのも、「当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識だった・・・」(同上)
からです。
彼の、「近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張し、平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの提携、すなわち日独伊三国軍事同盟に反対し続ける。」(同上)という軌跡からすると、彼はとにかくファシズムのドイツ・イタリアを毛嫌いしており、そのために、当面の最大の敵である英国に対し、わざわざ開戦の布石を打ちながら、絶好の開戦時期を逃してしまったとのそしりを免れないのではないでしょうか。
このように首尾一貫しない米内を現実主義者として高く評価する池田の筆致には、従って、私は全くもって同意できません。(太田)
(続く)
日本の戦犯は誰なのか(その1)
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