太田述正コラム#4290(2010.10.2)
<ナチス親衛隊(その3)>(2011.1.15公開)
(3)ヴァッフェンSS
「・・・歴史的に恐れられてきたヴァッフェンSSだ・・ダンケルクで英軍部隊に対して行った残虐行為が喧伝されたのは自業自得だ・・が、実際には、それは、おおむね非効果的な軍事力であって、その司令官のエゴを満足させるためとプロパガンダ目的のために維持されたものの、訓練と装備が不十分だった。・・・」(C)
「・・・ウィールは、ヴァッフェンSSが普通の兵士達であったという神話を正しくも退ける一方で、守るすべもない一般住民と捕虜に対して残虐行為を犯したのはドイツの軍隊のうちSSだけであるとの逆の神話についても一刀のもとに切り捨てる。
しかし、彼は、ヴァッフェンSSのイデオロギー的狂信が、どれほどその部隊を繰り返し無意味な自己犠牲的行為へと駆り立てたかを伝えることをしていない。
ヴァッフェンSSの要員達は、より慎重な正規軍の将校達からしばしば批判されたが、その将校達の幾ばくかは、ヒムラーが苦情を言ったように、自分達の部隊を維持しこの脅威たるライバルの力を削ぐために、SS要員達に最も危険な部署を戦闘で余りにも容易に与えたものだ。
結局、ヴァッフェンSS要員の3分の1を超える者が戦闘で殺されたが、これは職業的軍隊<たる正規軍>の死亡率よりも顕著に高い死亡率だった。・・・」(B)
「・・・人種的制限は緩和されて行き、スラブ人中ウクライナ人、コソボからのアルバニア人、そしてトルコ人、タタール人、更には蘭領東インド(インドネシア)からのアジア人の部隊が募集してつくられた。
ウクライナ人とタタール人は、どちらもスターリンの下で迫害に苦しんだが、彼等の動機は国家社会主義への共感というよりも共産主義への憎しみだった。
<ドイツに亡命していた>エルサレムのイスラム教指導者(Grand Mufti)のハジ・アミン・アル=フセイニ(Hajj Amin al-Husayni)<(コラム#75、1357、1380、2033)>は、セルビア人とユダヤ人への憎しみにつけ込んで、イスラム教徒たるボスニア人だけからなるヴァッフェンSS師団である第13SS「三日月刀」師団を募集してつくった。
第二次世界大戦初期における、ソ連による1年間にわたったバルト諸国の占領は、エストニア人とラトヴィア人の中から、ヴァッフェンSS諸部隊への志願者達を生み出した。
もっとも、これら部隊の大部分は強制的徴兵によって編成されたのだが・・。・・・
インド自由意思歩兵連隊950(Indische Freiwilligen Infanterie Regiment 950)(時期に応じ、ヴァッフェンSSのインド自由意思兵団(Indische Freiwilligen-Legion der Waffen-SS)、自由インド人兵団(Legion Freies Indien)、アザド・ヒンディ・ファウジュ(Azad Hind Fauj)としても知られた)は、1942年8月に、主として枢軸側によって北アフリカで捕虜になった英印軍の離反インド人兵士達によって創設された。
ドイツ軍とともに戦うべく寝返ったインド人志願兵達の全部ではなくても多くは、インド国民会議派の元総裁で、亡命した、ネタジ(指導者)・スバス・チャンドラ・ボース(Netaji Subhash Chandra Bose)<(コラム#14、264、922、1249、1455、2021、3486、3496、3503、3698、3818)>の強固な愛国的支持者達だった。・・・」(E)
「・・・平時には、ヴァッフェンSSは、SSライヒ総統のハインリッヒ・ヒムラーの統制の下に、SS作戦司令局(operational command office)を通じて属したが、動員時には、SSは、その戦術的統制を軍最高司令部(High Command of the Armed Forces)に移譲された。
<ヴァッフェンSSの>最初の要員資格は、ナチス国家の人種政策に沿って「アーリア人」だけにしか認められていなかったが、1940年に、ヒットラーは、大部分が外国人志願兵と徴兵、ないしそれらだけによってつくられる部隊の編成を認めたため、戦争の末期には、ヴァッフェンSSの約60%が民族的に非ドイツ人によって構成されるに至った。
戦後、ニュールンベルグ裁判において、ヴァッフェンSSは、そのナチ党との本質的結びつきと戦争犯罪への関与により、犯罪組織として非難された。
ヴァッフェンSSの帰還兵達には、正規の陸軍(Heer)、空軍 (Luftwaffe)、海軍(Kriegsmarine)で勤務した帰還兵に与えられた諸権利の多くが与えられなかった。
例外的に扱われたのは、1944年以降のヴァッフェンSSへの徴兵だった。
この例外扱いは、それが非自発的奴隷労役であったためだ。
1950年代と60年代に、ヴァッフェンSSの帰還兵の諸団体は、ニュールンベルグ裁判の判決を撤回させて自分達の仲間に対する恩給権を勝ち取るための数多の法的闘争で勝利した。・・・」(F)
→ナチス党のイデオロギーに心酔したフセイニと、単に敵の敵としてナチスドイツを利用したに過ぎないボースとは明確に区別すべきでしょう。
当然のことながら、ナチスドイツと同盟関係を取り結んだ戦前の日本は、ボースと同じ立場でした。(太田)
3 終わりに
ヒムラーは、常にインドのバガヴァッド・ギータ(叙事詩『マハーバラータ(マハーバーラタ)』(コラム#777、2008、4279)の一部)を持ち歩いていました。
それが、彼をユダヤ人絶滅計画を実施するにあたって罪の意識から解き放ったというのです。
主人公の戦士、アルジュナ王子のように、自分は自分の行う行為に何の感慨もなく、単に義務を遂行しているだけであると感じていると。
しかし、そのヒムラーが、もともとは母親譲りの敬虔なカトリック教徒であったことは示唆的です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Himmler 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
カトリック教義の非寛容性、すなわち、異質なものを排除しようとする傾向をヒムラーは生来身につけており、その彼が、ヒットラーのユダヤ人排斥論に接することによって、史上最悪の犯罪の首魁へと変貌したのは、決して偶然ではなかった、というのが私の考えです。
(完)
ナチス親衛隊(その3)
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