太田述正コラム#4296(2010.10.5)
<改めてアラブ科学について(その3)>(2011.1.18公開)
 (3)アラブ科学と経験科学
 「・・・これらの人物達に帰せられる科学の前進よりも重要なのが、彼等が採用した科学的手法だ。
 彼等は、観察と実験に拠り、その結果がアリストテレスやプトレマイオスもしくはガレノス(Galen<。129~199/217。ギリシャ系ローマ人
http://en.wikipedia.org/wiki/Galen (太田)
>)が書いたことと違っていたら、彼等は教義ではなく結果に従った。
 ムウタジラ主義<(コラム#4220)>と呼ばれた、偏見なき精神と合理主義精神とが存在しており、それは<欧州における>啓蒙主義に1,000年間先んじていた。・・・」(B)
→「観察」まではよしとして、「実験」を行ったアラブ科学者は、アル=ハイサムくらいではなかろうか。(太田)
 「・・・近代科学手法は、観察と計測に立脚しており、しばしば、17世紀にフランシス・ベーコンとルネ・デカルトによって確立されたとされている。
 しかし、イラクに生まれた物理学者であるイブン・アル=ハイサム(アルハゼン)は、同じ観念を10世紀に持っていたのだ。・・・」(D)
→計測は観察の一環であり、実験とは言えない。繰り返しになるが、アラブ科学の中で、実験を伴った科学的発見を行ったのは、(光学の分野における)アル=ハイサムくらい
http://en.wikipedia.org/wiki/Alhazen 前掲
であり、彼は、むしろ例外的な存在だったのではなかろうか。
 なお、経験論の祖であるフランシス・ベーコン(1561~1626年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Bacon
とは違って、デカルト(1596~1650年)は、地理的な意味での欧州における近代科学手法の創始者の1人であるとは言えず、単にギリシャ的合理論科学の再興者の1人に過ぎないと見るべきだろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ren%C3%A9_Descartes (太田)
 (4)アラビア科学の衰退
 「・・・どうしてアラブ科学革命は腰砕けになってしまったのだろうか。
 アル=ハリリは、印刷への懐疑が進歩を妨げたと主張する。
 (ベネティアからオスマントルコに送られた、印刷されたコーラン(注)が余りにもたくさん誤りがあったことから、それはほとんど涜神行為であるように見えた。)・・・」(B)
 (注)「可動活字で印刷された、現存する最も古いコーランは1537年ないし1538年にヴェネティアでつくられた。アラビア文字を使ったあらゆる可動活字印刷が1485年に禁止されていたことから、オスマントルコ帝国で販売するために準備されたように思われる。
 この布令は1588年に撤回されたが、いかなる分野であれ、実に19世紀末に至るまで、可動活字の採用には、それがコーランであればなおさら、強い抵抗感が持続した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Qur’an (太田)
 「・・・<アシュアリー派の影響、とりわけその総帥たるアル=ガザーリ(コラム#4222)の影響がしばしば指摘されるが、>アル=ガザーリは、彼が反イスラム的であるとみなした諸観念に拠った神学的観点を主として攻撃したのだ。
 この、どちらかと言えば形而上学的な紛争によって科学(hard science)が大きく影響されたはずがない。
 カリフの座の力の弱体化こそが<科学的手法の払底>真の原因であり、モンゴルの<イラク>侵攻<(フラグ率いるモンゴル軍が1258年にバグダッドを陥落させ、智慧の家を完全に破壊した
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Baghdad_(1258) (太田)
)>は、単に一つの症候に過ぎない。・・・」(D)
3 終わりに
 思うに、コーラン印刷への逡巡にせよ、アシュアリー派の登場にせよ、神を絶対視し、コーランを神の言葉とみなして神聖視することに由来しているのであって、結局のところ、アラブに係る科学的営為の挫折の原因は、イスラム教自体に内包されていたのであり、それが挫折することは最初から必然であった、と言ってよいでしょう。
 つまり、アラブ科学は、もともと科学の育つ環境ではない砂漠の一画に、例外的な何人かの科学愛好家の権力者によって水と肥料が与えられて人工的に育った花のようなものであり、だからこそ、あらゆるアラブ権力者の力が衰えるとともに、科学愛好家たるアラブ権力者がその後もいたとしても科学を育てる余裕などなくなり、アラブ科学は衰退した、ということではないでしょうか。
 なお、イスラム教を信奉していたとはいえ、オスマントルコは、アラビア語を用いなかったので、仮に科学が栄えたとしても、厳密に言えばそれはアラブ科学とは言えませんが、オスマントルコにおけるスルタン等の権力者の間から、(イスラム教徒としては自然なことながら、)17世紀にもなると科学愛好家が払底したため、科学もまた姿を消した、
http://en.wikipedia.org/wiki/Science_and_technology_in_the_Ottoman_Empire
ということなのでしょう。
 その他のイスラム世界においても、事情はほぼ同じまま現在に至っている、ということであると私は考えています。 
(完)