太田述正コラム#4472(2011.1.1)
<映画評論19:ロビン・フッド(その3)>(2011.2.1公開)
–リチャード1世–
リチャード(Richard I=Richard the Lionheart。1157~99年)は、イギリスのオックスフォードで生まれたものの、その生涯のほとんどをフランスで過ごし、英語はしゃべれませんでした。
イギリス国王になってから亡くなるまでの10年間、彼がイギリス滞在した期間は通算6ヶ月を超えていませんし、最期の5年間に至っては、全くイギリスに足を踏み入れていません。
これだけで、彼がこの映画で善玉とされるわけがないのはお分かりでしょうが、もう少し見て行きましょう。
父親のヘンリー2世が、1170年に、英仏にまたがる彼の領地を息子達に分けて連邦制的統治を行おうとした時、王妃でリチャードの母親のエレアノアが、彼女のもともとの領地であるアキテーヌを、とりわけかわいがっていたこの息子に与えるよう求め、ヘンリー2世がこれを認めたため、リチャードとエレアノアは、一緒にアキテーヌに旅立ちます。
その後、1173年にリチャードの兄であるヘンリー(父親の大王の下で、1170年に小王(the Young King)としてイギリス国王に即位した)が父親のヘンリー2世に反旗を翻し、当時のフランス国王ルイ7世と手を結ぶと、リチャードは、2人の弟であるジェフリー(Geoffrey)とともにヘンリーの下にはせ参じ、リチャードに至っては、ルイ7世に家臣の礼までとります。
翌年、この3人の兄弟とルイ7世の側は、ヘンリー2世との戦いに破れ、3人の兄弟は父親と和を講じます。
1183年には、リチャードは、一人で再び父親に反旗を翻し、父親の命を受けてアキテーヌに攻め寄せてきた兄ヘンリーと弟ジェフリーの部隊に抵抗します。
その年、兄のヘンリーが病没しますが、今度は父親のヘンリー2世自身が、末息子のジョン・・分け与えられるべき領地が3人の兄達にとられてほとんどなかったこともあって、この間ずっと父親と行動を共にしていた・・とともにアキテーヌに攻め寄せます。
そこで、リチャードは、ルイ7世の後を襲ってフランス国王になっていたフィリップ2世・・その父親ルイ7世の元王妃であったエレアノアはその義母にあたる・・と同盟を取り結びます。
(以上、ヘンリーについては、下掲も参照した。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_the_Young_King
その見返りとして、リチャードは、フィリップに対し、ノルマンディーとアンジューを譲る約束までします。
(その間、ジェフリーも再びフランス側に寝返り、フィリップ2世の臣下になっていますが、1186年に急死します。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_II,_Duke_of_Brittany
(1月1日アクセス)
そして1189年、ヘンリー2世とジョンに対するにフィリップ2世とリチャードとの間で、雌雄を決する戦いが、フランスのバランス(Ballans)で行われ、リチャードの側が勝利し、やむなくヘンリー2世はリチャードを後継にすることに同意します。
その2日後にヘンリー2世は死亡し、この父親を心痛で殺したのはエドワードだという批判を受けつつ、リチャードはイギリス国王となるのです。
リチャードがイギリス国王になるまでには、かくも入り組んだ経緯があるのですが、要するに、ヘンリー2世の息子達の中で、最も執拗に父親への反逆を、断続的にフランス国王と提携しつつ繰り返したのがリチャードであったわけで、このことも、この映画がリチャードを善玉扱いできない有力な理由であると言えるでしょう。
さて、即位してまもなく、エルサレムがサラディン(Saladin)(コラム#547、685、3814)の手に落ちたことを知ったリチャードは、フランスのフィリップ2世とともに第3次十字軍に出かけます。
彼は、もともと捕虜の殺害を繰り返していますが、十字軍の遠征先で捕虜にしたサラディンの部下2,700人を殺害した挿話はとりわけ悪名高く、この映画でもロビン・フッドがこの件でリチャードを批判する場面が出てきます。
結局、エルサレム奪還の目的を果たせなかったリチャードは、フィリップ2世が先に帰国してしまったこともあり、1192年に帰国の途に就くのですが、途中、神聖ローマ皇帝のハインリッヒ(Henry)6世とその臣下であるオーストリアのレオポルド(Leopold)公爵によって、言いがかりを付けられて捕虜となり、途方もない額の身代金を払ってようやく自由の身になります(注2)。
(注2)十字軍参加者を捕虜にするのは違法であり、法王によってハインリッヒ6世もレオポルド公爵も破門されている。
この身代金を使って、レオポルドによって、あのウィーンの基礎が築かれることになるところ、この金は、十字軍参加経費もそうですが、イギリスにおける、(通常税金が免除されている)僧侶への課税を含む増税によって賄われた(注3)のであって、このことでもリチャードはイギリス人の不興を買いました。
(注3)リチャードの母親のエレアノアは、身代金の額の減額交渉とその確保に奔走した。
そのリチャードが、イギリスにおいて人気を挽回したと考えられるのが、1194年に十字軍から帰ってからの彼の晩年の行動です。
リチャードの留守中、弟のジョンが、先に帰国していたフランスのフィリップ2世と通じて叛乱を起こし、フィリップはノルマンディーを奪取していました。
リチャードは、まずジョンを許してから、ノルマンディーを取り戻すべく、国際的な同盟網を構築しつつ、その築城と作戦の天分を活かして八面六臂の活躍をし、フィリップ2世を追い詰めるのです。
しかし、1999年、自分の中央フランスにおける領地たるリモージュ(Limoges)伯爵領での叛乱を鎮圧するため、叛乱軍側の小城を攻めていたリチャードは、敵兵の矢に斃れてしまいます。
リチャードの心臓はノルマンディーのルーアン(Rouen)の寺院、残りの内蔵は斃れた地(Ch���lus)、それ以外の遺骸は前述のフォンテヴロー寺院に葬られます。
(以上、特に断っていない限り、Eによる。)
こういうわけで、この映画では、リチャードは、フィリップ2世に挑む、勇敢ではあっても、残虐で約束も守らない人物として、善玉でも悪玉でもない形で登場するのです。
(続く)
映画評論19:ロビン・フッド(その3)
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