太田述正コラム#4318(2010.10.16)
<クリミア戦争(その2)>(2011.2.8公開)
(2)戦争そのもの
「・・・トルコとだけの単純明快な戦争の代わりに、ロシアは、トルコだけではなく、、英国、フランス、サルディニアという複数の敵に相手をされることになった。・・・」(A)
「・・・<戦争の歴史の中で初めて、英軍の場合、黒海に通信線を敷設することによって、電信で>上級指揮官達がロンドンの政治家達と直接的な接触を続けることが可能となった。(これには良い点と悪い点があった。)
また、歩兵の兵器の殺傷力が増大し、<英国が臨時に鉄道を港から戦場まで敷設することによって>鉄道が戦場の一部を構成することになり、従軍記者が前線に出現し、セヴァストポール(Sevastopol)郊外の塹壕システムは<第一次世界大戦の時の>西部戦線の戦場の先駆けとなった。・・・
英国だけで19,584人<の兵士>が亡くなったが、そのうちわずか19%だけが実際の戦闘中に殺害されたものだ。
その他の人々は病気のせい<で亡くなったの>だった。
それは、基本的に、野戦病院の衛生状態と看護条件が悪かったためだ。・・・」(F)
「・・・例えば、英国の医務将校の長は、「男が静かに墓に入るより、そいつが元気一杯わめくのを聞く方がいい」という理由で、ひどい戦傷を負った者に対しクロロホルムを使うことを禁じた。・・・」(E)
「・・・フィゲスは、少なくとも750,000人もの男が、その多くは病気によって、命を失ったことを示唆する。・・・」(B)
(3)戦争がもたらしたもの
「・・・英国がこの戦争の勝者となり、この戦争の結果、ロシアは、その後ほとんど1世紀にわたって中欧での支配的影響力を失った。・・・」(A)
「・・・この戦争は、地殻変動的な出来事であり、古の欧州協調システム(Concert of Europe)(注2)が<実質敵的に>崩壊したことを意味し、ロシアの力をほとんど1世紀にわたってよろめかせ、ドイツとイタリアが統一されて国民国家として出現する道を切り開いた。
(注2)1815年のナポレオン戦争の終結から1914年の第一次世界大戦の勃発までの間の欧州における勢力均衡。
http://en.wikipedia.org/wiki/Concert_of_Europe (太田)
それは、死者を戦場から運び出すために定期的に休戦が行われたという意味で、最後の「古い」戦争だった。
より重要なことは、それが、最初の「真に近代的な戦争」でもあったことだ。
すなわち、それは、蒸気船と鉄道による紛争であり、従軍記者と新聞カメラマンによってカバーされた紛争だったのだ。・・・
それは<また>、何世紀にもわたって南東欧州において支配的であったけれど硬変した傷病兵となってしまっていたところの、オスマン帝国の死の陣痛をも意味していた。・・・」(B)
「・・・「敗北」は、ロシアにおいては、その10年後の農奴解放(注3)につながったように見えるし、英国では、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)(注4)が、能力と勤勉なるつつましき諸徳でもってヴィクトリア時代の大業績の象徴となった。
(注3)ロシア皇帝アレクサンドル2世(Alexander II。1818~81年。皇帝:1855(クリミア戦争の最中)~81年(暗殺))によって1861年に行われた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Emancipation_reform_of_1861
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_II_of_Russia (太田)
(注4)1820~1910年。フィレンツェ生まれのイギリス人。看護士にして統計学者。世界初の世俗的看護学校設立。
http://en.wikipedia.org/wiki/Florence_Nightingale (太田)
電信の出現は、かつて本国まで何週間もかかったところの、何が起きているのかの説明が瞬時に入手できるようになったことを意味した。
これは、良かれ悪しかれ、新聞と、従って世論、とが、影響力を発揮するようになっていた社会においては重要なことだった。
フィゲスは、19世紀央に<おける英国で>は、新聞がヒステリー的なロシア嫌いを掻きたてたため、<英国の>指導者達にとっては、ニコライ皇帝及びロシアの脅威と対決する以外にほとんど選択肢が残されていなかったと示唆する。・・・」(D)
「・・・<この戦争によって>正教のロシアとイスラムとの断層線がどうなったは、チェチェンその他の主としてイスラム教のかつてソ連の諸共和国を見れば明らかだ。
オスマン帝国全体が欧米の影響に対して開かれたことが、過激な(militant)イスラム主義の創造に主要な役割を果たした。
この洞察力ある本は、ウラディミール・プーティンの命によって、クレムリンの大統領府の控えの間に、皇帝ニコライ<1世>の肖像画がかけられたことへのフィゲスによる注記でもって締めくくられている。」(G)
(続く)
クリミア戦争(その2)
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