太田述正コラム#4376(2010.11.14)
<『吉田茂の自問』を読む(その5)>(2011.2.27公開)
(3)重光葵(コラム#4348、4350、4366)
「松岡の考えの基礎は間違っていたかも知れないが、政策の一貫していたことが明らかになった。」(255頁
「自分が本当に腹を打ち明けることが出来たのは・・・木戸内大臣・・と陛下だけである。」(256頁)
→このように、天皇は別格として、外務省出身者と(陸海軍以外の)他省の出身者(木戸幸一は商工省出身)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
には、重光は甘いのです。(太田)
「一体軍人などというものは、外交を手品みたいに考えている。帽子の中から何でも出せるように何でも出来るものと考える。重慶と話をつけて、支那からアメリカを追い出し、支那と手を握って一緒にアメリカに立ち向うというようなことを真面目に考えているような按配だった。」(256~257頁)
「近衛は、ゾルゲ事件以来ソ連に対しては戦慄するような気持をもっていた。それが、<和平仲介を依頼するために>ソ連行きを引き受けたのは、ただ飛び廻っていたい気持ちからだったであろう。近衛という人は矛盾だらけの乱脈な人だった。
鈴木さんが組閣の当時から終戦の肚があれば、行間にそれが読みとれるのでなければ嘘だ。ポツダム宣言を黙殺するといってしまってはお話にならぬ。結局無識のいたすところで、大智とまではいかなくても、中智位はなければ何にもならない。<(注2)>
小磯内閣はみょうひん[繆斌<(漢字印字がなかったっためにひらがなのままにした?(太田))>]工作<(注3)>や対陸軍関係の行詰まりだけで瓦解したのではなく、そもそも初からナンセンスだった。三月事件<(注4)>や満州事変の発頭人であった小磯、二宮、建川、橋本<(注5)>というような連中の寄り合いであった。」(260~261頁)
(注2)「陸軍の突き上げで、<1945年>7月28日に本来鈴木は、意見を特に言わない、と言いたかったのだが、記者会見で「共同聲明<(ポツダム宣言)>はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」・・・と述べ<たところ>、翌日・・・、讀賣新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと予想以上に大きく・・・報道された。<そして>、この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と誤訳され報道された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
(注3)「1945年・・・3月、<汪兆銘政権で要職を歴任していた>繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本軍撤退などを条件とする全面和平交渉を小磯國昭内閣と行った(繆斌工作)。
この交渉は、日本側では小磯國昭や国務大臣・情報局総裁緒方竹虎らが主導した。・・・[<しかし、>過去に繆と接触した経験があり、信頼できない人物だと確信していた重光葵外相と米内海相<は>※]、繆は「和平ブローカー」で蒋介石には繋がっていないなどと批判し、繆の招致に反対した。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日には昭和天皇拝謁に際して繆を引き留めることを進言した。しかしこれがかえって天皇の不興を買うことになる。結局繆は成果をあげることなく南京に引き返し、この騒動が主因となって小磯内閣は総辞職となった。
戦後南部圭助(頭山満の腹心)は、蒋介石に繆斌工作が蒋自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している。・・・
日本敗北直後の1945年・・・9月27日、上海で繆斌は軍統に逮捕されてしまう・・・。・・・
繆斌の死刑判決に至るまでの審理とその死刑執行は余りにも素早かった。そのため、蒋介石には繆を「漢奸」として処断する以外にも、別の意図があったと推察する見方がある。たとえば劉傑と鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した、蒋による口封じの可能性を指摘している。和平工作が公になれば、カイロ会談で蒋が徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見するためである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%86%E6%96%8C
(ただし、※は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD による。)
(注4)「1930年(昭和5年)に政治結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐・・・らは、我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに杉山元陸軍次官、小磯國昭軍務局長、永田鉄山軍事課長、・・・二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長、・・・作戦課長、・・・補任課長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明・・・らも参画。永田鉄山軍事課長が計画書(建設)を作成した。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。・・・
<しかし、>直前の3月17日に撤回された。・・・
中央部における中堅将校中に強い反対が起こったことと、実際に兵力を握っていた第1師団長の真崎甚三郎が反対の態度を表明したからであった。・・・
<このように、>統制派・・・は、三月事件を断行し、軍事政権に切り換えたうえで、満蒙問題に着手する予定であったが、皇道派の正論に圧倒されて失敗に終わると、満蒙で事を起こして国内の改革を行おうとした。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(注5)小磯國昭は満州事変当時、軍務局長だったが、職掌から言って、同事変について責任があるとは言えまい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80#.E9.99.B8.E8.BB.8D.E7.9C.81.E8.BB.8D.E5.8B.99.E5.B1.80
二宮治重は、満州事変当時、参謀次長だったので同事変の責任がないとは言い難い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E6%B2%BB%E9%87%8D
建川美次は、「勃発する満州事変直前に参謀本部第1部長として関東軍の行動を引き留める名目で奉天に派遣されるが関東軍の行動を黙認」した人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E6%AC%A1
であり、同事変に責任がある。
橋本欣五郎は、「二・二六事件の際に・・・、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、予備役へ回される事とな」った人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%AC%A3%E4%BA%94%E9%83%8E
だが、満州事変には関わっていない。
→他方、軍出身者に対しては辛口などというものではありません。
海軍出身の鈴木貫太郎の「黙殺」をめぐるいきさつには大いに同情すべきものがある一方、ローズベルト米大統領の死に際して弔意を表明したり、御前会議で天皇の聖断を求めたり、とその政治的感覚は敬意に値します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
鈴木への罵倒に近い重光の話は、重光の人間性を疑わせるものです。
また、重光の話に登場する陸軍出身の小磯國昭、二宮治重、建川美次、橋本欣五郎が、いずれも三月事件に関わっていたことは事実ですが、満州事変に関しては、小磯と橋本は関係ないと言うべきであり、また、小磯内閣において、小磯が首相、二宮が文相であったのは事実ですが、建川は駐ソ大使、橋本は大政翼賛会常任総務
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%86%85%E9%96%A3
に過ぎず、重光の話し方は、いかに彼が陸軍を忌み嫌っていたかを示して余りあるものがあります。
しかし、例えば小磯など、とう見ても立派な人物であったように見受けられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD 前掲
なお、近衛文麿は貴族であったため、これまた、それだけで重光のお眼鏡にかなわなかったのではないでしょうか。(太田)
「再軍備の問題は、結局「方針」の問題でなくて、「要領」の問題である。・・・スレイヴならいざしらず、自衛権はクリミナルにもある。自衛権があれば、これを行使する手段もあるべきはずのものである。・・・
再軍備問題は、フィロソフィの問題であると同時に、いざやるということになれば、高度の政治問題でもあるわけだ。これについては、当然、諸外国の対日感情とか、国民感情とか、色々な面を考え合わせてやって行かなければならない。これは「要領」に属することだ。
中立などということは、一時代前の考えだ。世界は動いている。現在の共産主義と民主々義との争いに対しては、中立の余地はない。共産主義は戦争一色ではない。平和もその手段であって、ソ連はその間の使い分けをする。・・・「第三次世界戦争」・・・は、当分ないと判断するのが常識だろう。しかし「戦争」が無いからといって安心することは間違いだ。・・・形勢は、まだまだ複雑緊迫化の方向に進んでいうと思わなければならない。ソ連には根底において和解出来る素質がない。話せば判るのはデモクラシーにのみ通じる考え方である。」(261~262頁)
→あくまでも再軍備する「方針」を決めた上で、実際に整備する軍事力の量や質をどうするか、その際に「諸外国の対日感情とか、国民感情とか、色々な面を合わせてやって行かなければならない」というのが「要領」の問題でなければおかしいでしょう。
重光の言は、吉田ドクトリンの、堀田の社会党バージョンに対するに、自民党バージョンを見事に先取りしていますね。
ここまで見てきただけでも、吉田茂を総帥として、外務省出身の当時の重鎮達が総出を挙げて構築したのが吉田ドクトリン/属国化戦略であった、と断定してよさそうです。(太田)
(続く)
『吉田茂の自問』を読む(その5)
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