太田述正コラム#4408(2010.11.30)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その2)>(2011.3.7公開)
「<この外交使節が使った船の名前は>満州号(Manchuria)<だった。>」(12)
→この船の名前、あたかも将来の日米の衝突を暗示しているかのようですが、できすぎのような話ですね。(太田)
「タフトは、・・・<少し前に>米国にとって最大の植民地であったフィリピンの総督を勤めた・・・。」(21)
「<振り返ってみれば、フィリピンでの>米国の軍事行動は、25万人を超えるフィリピン人の死をもたらした。
<1898年から>の7年間<の平定作戦>で多くのフィリピン人は、米国人というと拷問、強制収容所、一般住民の強姦と殺害、更には彼らの村々の破壊、を連想するようになっていた。・・・
<しかし、>タフト<に言わせれば、>真の問題は<自分達にではなく、>フィリピン人自身に存したのだ。・・・
「アングロサクソンの自由の枠組み…を構築するには1000年かかる」<のであって、フィリピン人も自治が可能となるまでにはそれくらいの長い時間がかかる。にもかかわらず、彼らは性急に独立を求めているが、笑止千万だ、というのだ。>
<17世紀前半にニューアムステルダム当時のニューヨークに移民してきたオランダ人を祖とする金持ちの名家に生まれた>テディ・ローズベルト<は、ローズベルトで、>・・・白人のキリスト教徒の男性が進化の梯子の天辺であるとする強力な神話を熱心に抱懐していた。」(21、22~23)
→このおぞましい人種主義的思い込みが、一体どこから来たのかを、以下、ブラッドレーは追及します。(太田)
「「ローマの歴史家のカイウス・コルネリウス・タキトゥス(Caius Vornelius Tacitus)は、その著書『ゲルマーニア』の中で、はるか昔に、「ゲルマーニア諸族は、何ら異民族との通婚による汚染を蒙らず、ひとえに本来的な、純粋な、ただ自分みずからだけに似る種族《40頁》<であって、裏切りと逃亡犯は木に吊し、臆病もの、卑怯もの、あるいは恥ずべき罪を犯したものは、頭から簀をかぶせて泥沼に埋め込む《68頁》、といった>高い道徳律(high moral code)を有し《?頁》、自由の意気と精神・・・を持<ち>《169頁》、大事には部民全体が審議に掌わる《65頁》 。」と記した。」(24~25)
→ブラッドレーによるこの引用文は、一つながりの文章なのですが、それにズバリ相当する箇所が『ゲルマーニア』にはないので、私が、その数箇所から合成してみました。《》内は岩波文庫版の頁です。一箇所、《?頁》としたのは、適当な箇所を発見できなかった部分です。なお、ブラッドレーは、孫引きをしているのでこんなことになってしまったのです。
ブラッドレーは、この本が、アングロサクソンを至高の存在とする米国における人種主義者達の聖典とされた、と考えています。
ゲルマン人中、全く人種的にも文化的にも汚染されることがなかったのが、ブリテン島に渡ったアングロサクソンだったという観念がここから生まれた、というのです。(太田)
「ヘンリー8世は、・・・<自らがカトリシズムを排斥してつくった>イギリス国教会は、1066年のノルマン人による<アングロサクソン>征服以前に存在していた、より純粋なアングロサクソン的伝統との再結合(reconnection)であると彼の臣民達に宣伝した。
この国王の主張が成功を収めたことは、ある政治的パンフレット著作者が、1689年に、政府(government)に関する智慧を求める者は、「イギリスの根本法(constitution)を学ぶために、タキトゥスを通じてゲルマンについて知らなければならない」と記したことで分かる。」(26)
→1066年以前にアングロサクソンは既にカトリシズムを受容していましたが、ヘンリー8世の言いたかったのは、カトリシズム受容以前のアングロサクソンの間で盛んであったところの、(キリスト教伝播以前の)自然宗教的伝統に根ざしたキリスト教ペラギウス派(コラム#461)、との再結合なのでしょうね。(太田)
「シャルル=ルイ2世・ラ・ブレッド・エ・ド・モンテスキュー男爵(Charles-Louis de Secondat, baron de La Brede et de Montesquieu)は、「革命以前の植民地時代の英領アメリカにおいて、政府と政治の権威として極めて頻繁に引用された。」
(米国政府において、今、かくも核心的なものとなった権力分立を奨めたのはモンテスキューだった。)
タキトゥスは、モンテスキューのお好みの著者達の一人であり、このフランス人は、「森林の中で考案されてきたところの、あの美しいシステム」によって鼓吹されていた。」(27~28)
→アングロサクソン的なものの祖がタキトゥス描くところのゲルマン文化であったことに初めて着目したのは、どうやら、フランス人、モンテスキューであったようですね。(太田)
「トーマス・ジェファーソンは、・・・1774年に『英領アメリカにおける諸権利についての要約的見解(A Summary View of the Rights of British America)』を書いたが、<その中で、>「神」に言及したのは2回だけだが、「サクソンの祖先達」には6回も言及している。
<英>国王<ジョージ3世>と袂を分かつことを訴えるにあたって、ジェファーソンは、彼らが共有しているところの、「サクソンの祖先達が、古里たる欧州北部の荒野と森林を去って、ブリテン島を奪取し、…そこにおいて、長期にわたってその国の栄光と防護<手段>となった法体系を確立した」と記している。
ジェファーソンは、もともとのサクソン人達は、「上級者」によって統治されることなく、「封建的諸条件とは無縁であった」のであるから、同国王は、米諸植民地に対して手を緩めるべきだ、と主張した。」(28)
→ジェファーソンは、『ゲルマーニア』の時代のゲルマン人と「再結合」しようとした、ということになります。
我々は、アングロサクソンが実はゲルマン人ではなく、ケルト化したバスク人であったことを知るに至っていますが、それを知らなかったジェファーソンら米国の建国の父達は、こうして、そもそも欧州におけるアングロサクソン誤解者であったところのアングロサクソン「通」モンテスキュー(コラム#503)の影響を受け、モンテスキューの考えをいわば過激化することによって、アングロサクソン的伝統から離れて行った、ということになりそうです。(太田)
(続く)
セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その2)
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