太田述正コラム#4416(2010.12.4)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その1)>(2011.3.10公開)
1 始めに
 日本の植民地統治は、欧米諸国の植民地統治に比べて、格段に文明的というか人道的なものであった、ということは、かねてより私が訴えてきたところです。
 (オランダ、ベルギー、フランスについてはコラム#149。英米については略す。)
 デイヴィッド・オルソガ(David Olusoga)・キャスパー・W・エリクセン(Casper W Erichsen)著 ‘The Kaiser’s Holocaust: Germany’s Forgotten Genocide and the Colonial Roots of Nazism’ の書評に拠って、ドイツの南西アフリカ統治をおさらいをすることで、このことを改めて検証するとともに、欧米諸国及び日本による植民地統治に係る一般論、ナチス論、米国論にも触れたいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2010/dec/04/kaisers-holocaust-olugosa-erichsen-review
(12月4日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/7940763/The-Kaisers-Holocaust-by-David-Olusoga-and-Casper-W-Erichsen-review.html
C:http://iuhuru.com/2010/07/1904-german-holocaust-namibia/
D:http://www.ft.com/cms/s/2/981b675c-b169-11df-b899-00144feabdc0.html#axzz1783DgF8q
E:http://www.dailymail.co.uk/news/article-1314399/Hitlers-Holocaust-blueprint-Africa-concentration-camps-used-advance-racial-theories.html
F:http://www.express.co.uk/entertainment/view/195713/The-Kaiser-s-Holocaust
 なお、オルソガは、イギリス系ナイジェリア人たるBBCプロデューサーであり、エリクセンは、デンマーク生まれの歴史家でナミビアでNGOを運営している人物です。(F)
2 ドイツの南西アフリカ統治をめぐって
 (1)序
 「2004年8月、ドイツのハイデマリー・ヴィースゾレク=ツォイル(Heidemarie Wieczorek-Zeul)開発援助相は、ナミビアに赴き、その100年前に犯されたところのジェノサイド的虐殺について、ドイツ政府を代表して謝罪した。・・・」(C)
 「・・・<ビスマルクは、ドイツは植民地を持たないこととしていたけれど、>1884年に、彼は、国家的威信と経済的メリットという根拠で南西アフリカにおいて保護国を樹立すべく、その考えを変えた。・・・」(A)
 「・・・<当時の>ドイツ人の思い込みとは真逆だったが、<南西アフリカの>原住民たるヘレロ(Herero)とナマ(Nama)は野蛮人(savage)ではなかった。
 ヘレロは洗練された文化を持っていて、彼らの先祖からの土地を数世紀にわたって占拠してきていたし、初期のオランダ人入植者の混血種たる子孫のナマは、恐るべき戦士であるとともにキリスト教徒だった。・・・」(E)
 「・・・この植民地の北半分を占拠していた半遊牧民(pastoral people)たるヘレロと、南部に住んでいたナマは、レーベンスラウム(Lebensraum=生存圏)を求めたドイツ人入植者にとって障害だった。・・・」(F)
 (2)原住民の抵抗
 「・・・ヘレロとナマの人々は、数的にはそれぞれ80,000人と20,000人だったが、頑強な、しかし組織化されていない抵抗を行った。
 ナマの指導者のヘンドリック・ウィトブーイ(Hendrik Witbooi<。1830?~1905年。コイコイ族(Khoikhoi)の支族たるナマ=ナマカ(Namaqua)の王
http://en.wikipedia.org/wiki/Hendrik_Witbooi_(Namaqua_chief) (太田)
>)は、希に見る有能なゲリラ隊長であり、ドイツ軍部隊を何度も屈辱的な目にあわせた。
 しかし、彼の戦士達は、火砲が、とりわけ彼らの女性達や子供達に対して使用された場合に、それに対抗するすべはなかった。
 そこで、ヘレロは、更には同様にナマも、彼らをドイツの「保護」の下に置く条約に調印することを余儀なくされた。
 しかしこれは、ウィトブーイが臍をかんだように、謳われていた「保護」とは完全に正反対の代物だった。
 その直後の1896年に、破滅的な牛疫(rinderpest)伝染病が、原住民の人々が依存していたところの、牛のほとんどを殺してしまったため、ドイツ人入植者達は最も良い牧草地を購入することができたし、それ以上の<原住民の>反対を押しつぶすことができるようになった。
 主人たる<ドイツ>人種は、黒人に対しては厳しい仕打ちをすることが一番であると考えており、世紀が変わると、<原住民に対する>殴打、強姦、窃盗、殺害がうなぎ登りに増えた。
 鉄道の到来すると、それが引き金になって叛乱が起こり、約150人の白人が殺された。
 セポイの反乱の後に英国がそうしたように、ドイツは復讐を声高に叫んだ。・・・」(A)
 「・・・ベルギー君主による<コンゴの>略奪行為<(コラム#149)>は、その20年後に<ドイツの>ヴィルヘルム2世皇帝によって、あたかも鏡に映したかのように南西アフリカで繰り返されることになる。
 1904年から1909年の間に、<ドイツの>帝国的支配者とその下っ端軍人行政官達(subaltern)は、今日のナミビアの原住民たるヘレロとナマの人々を粛清したのだ。・・・」(B)
 (3)初期の弾圧
 「・・・当時ドイツ南西アフリカと呼ばれていた地における植民地支配に抗う1904年のヘレロの叛乱の後、・・・ヴィルヘルム皇帝は、ロタール・フォン・トロータ(Lothar von Trotha<。1848~1920年
http://en.wikipedia.org/wiki/Lothar_von_Trotha (太田)
>)将軍を<南西アフリカの>軍事司令官<に>・・・任命した・・・<(注1)>
 (注1)それまでに、彼は、普墺戦争、普仏戦争、南西アフリカ、義和団の乱で活躍していた。(ウィペディア上掲)
 1904年に彼の軍は何万人ものヘレロ達をヴァーテルベルグ(Waterberg)で包囲し・・・オマヘケ(Omaheke)砂漠(注2)に・・・追いやった。・・・
 (注2)正確にはオマヘケ・ステップ。カラハリ(Kalahari)砂漠の西端。(ウィキペディア上掲)
 その数ヶ月後、もう1つの原住民たるナマが同じような運命を辿った。・・・
 その地で大部分が渇きと飢餓で死に、幾ばくかは蠍を食べて命をつないだ。・・・」(A、C)
(続く)