太田述正コラム#4418(2010.12.5)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その2)>(2011.3.11公開)
「・・・<当時、>トロータは、・・・彼の日誌に<ヘロロは>人間ではない(Unmenschen)、と記している。・・・
その後、トロータは、・・・絶滅(Extermination)指令(Order)を発し、ドイツ領域内のヘロロを見つけ次第撃ち殺せと宣言し・・・いわゆる浄化哨戒隊(Cleansing Patrol)群を100,000平方マイルに及ぶ領域全体に送り出した。」(A、F)
(4)強制収容所への収容
「・・・<しかし、>この指令はすぐに撤回された。
ベルギーによる<コンゴでの>残虐行為が国際的非難を引き起こしている時にあって、これはドイツの評判を傷つけるものであ・・・る、と本国の役人達が皇帝に圧力をかけたからだ。
1905年に、ウィトブーイが致命傷を負ったことでナマがバラバラになってしまっていたところ、当局は、<さっそく、ナマを>絶滅させる他の手段を見つけ出した。・・・
<溺れる者がつかむ>最後の藁を、皇帝に、アフリカ人の土地を強制収用する勅令(imperial decree)を発せしめることで差し入れたのだ。・・・
宣教師達は、<このように>自暴自棄になっていたアフリカ人達に対し、悪いようにはしないから、と藪の中から出てくるように説得した。・・・
<ヘロロを中心とする>大部分のアフリカ人は<この説得に従い、>降伏し<た>・・・。・・・
彼らは、それから・・・浄化哨戒隊の手で・・・強制収容所(Konzentrationslager=concentration camp)群に・・・牛用トラックでもって・・・駆り立てられ、奴隷労働者として使われた。・・・
ナマが蜂起すると、彼らも強制収容所群に運ばれ<、やはり奴隷労働者として使われ>た。・・・
<彼らは、>この植民地の鉄道建設に従事させられたのだ。・・・
これは過酷極まりない作業であり、男達は、しょっちゅう叩かれたし女達は組織的に強姦された。
線路のある区間では、18ヶ月のうちに囚人達の3分の2が死亡した。
ベルリンの十分なる了解の下における意図的な政策行動として、その多くが飢えさせられ、鞭打たれ、死ぬまでこき使われた<ということだ>。・・・
死亡率は40から60%に達した。・・・
しかし、<それでも足りぬといわんばかりに、>ドイツ南西アフリカの総督達の悪しき心の中で不吉な新しい観念が形成されつつあった。
ある「人類学者」がこの囚人達を調査するよう委嘱されたところ、彼は、ドイツの植民地計画が成功するために「死活的に重要」なことは、「労働に不適」であると見なされる諸人種は消滅させられるべきである、という報告書をまとめた。
「我々の生存のための闘争」はそのことにかかっている、と彼は警告したのだ。・・・
<これを受けて、「労働に不適」とみなされたところの、ナマ用の>最もひどい収容所が、現在のナミビアの沿岸・・・のルデリッツ(Luderitz)の町の外港の湾内の岩でできた・・・シャーク(Shark)島に<つくられた。>・・・
<この収容所では、>食べ物が・・・非常に乏しく、配給が行われる時には、「囚人達は、分け前を確保するために、野生動物のように闘い、互いに殺し合った」。・・・
死ぬべく放置されなかった者は、大きな石を島を横切って運び、湾の凍えるような水面に引きずり入れるように強いられた。
・・・恐ろしく寒い刑務所において、ろくな衣料も身につけていない状態で、掘っ立て小屋のような所に収容されていた<ナマの>囚人達・・・は、氷のように冷たい海の中に膝頭までつかって立っているように強いられ、それから引き揚げられ、両足にマッサージが施されて生きた心地にさせられた。
2年後、この収容所は強制的に閉鎖されたが、その居住者の70%は亡くなっており、まだ生きていたうちの3分の1は重い病気に罹っており、収容所長は「彼らはまもなく死ぬだろう」と信じていた。・・・
この収容所の医師のボフィンゲル(Bofinger)は、囚人達を医学研究に使用した。
この医院に入院した者は誰一人快復することはなかった。・・・
・・・生きている囚人達を使って様々な実験が行われた。
<例えば、>栄養不良によって罹る病である壊血病に伝染性があるかどうかを見極めるという眉唾物の触れ込みで、ボフィンゲルは、囚人達にヒ素とアヘンを注射した。
そして、彼らが死んでからその屍体を解剖したのだ。
(ドイツ人達が、その後罪の証拠となるような資料を焼き捨てたために、この強制収容政策によって、一体)何名が死んだかを正確に計算することは不可能だが、<原住民の>粛清が極めて効率的に遂行されたことにより、1908年には、皇帝の政府は、全部で4,600万ヘクタールの土地をアフリカ人達からもぎ取るに至っていた。
全部で75,000人の男女が死んだ<ともされている>が、歴史家の中には、<シャーク島の強制収容所で行われたことは、>20世紀最初のジェノサイドであったと考える者がいる。・・・
<この本の共著者達もそうだ。ここに収容された>ナマ<に関しては、>強制労働に従事させられたとは言っても、その主たる狙いは労働を通じた殺害だったからだというのだ。・・・
これらの強制収容所群は、1907年に<すべて>閉鎖されることになる。
<しかし、それは遅きに失していた。>
1908年時点では、・・・<実に、>ヘレロは16,000人、ナマは10,000人しか生き残っていなかった。・・・」(A、B、C、E、F)
(続く)
ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その2)
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