太田述正コラム#4428(2010.12.10)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その7)>(2011.3.16公開)
「1893年に32歳の・・・ウィスコンシン大学のフレデリック・ジャクソン・ターナー(Frederick Jackson Turner<。1861~1932年。歴史学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Jackson_Turner (太田)
>)という教授・・・が・・・講演で、「アメリカ大陸の発見から4世紀が経ち、米国憲法の下での100年が経とうとしている現在、フロンティアがなくなり、それに伴って米国史の最初の期間が終わった」と声明した<(コラム#4072)>。
この米国のフロンティアがなくなったという観念は、西に傾いている白人のキリスト教徒達に衝撃を与えた。
ローズベルトは、ターナーのテーゼの革命的性格を最初に感じ取った者の一人だった。・・・
ローズベルトは、「戦争がないと米国人は軟弱になって過度に文明化し、野蛮人の戦闘的資質を内に持つところの、新たな「主人たり得る(masterful)人種」に対して己を防衛できなくなってしまうのではないかと心配した。」(68)
→ターナーは、もはや米国は接壌的発展はできない状態となったと述べるとともに、接壌的発展によって維持されてきたところの、米国独特のフロンティア精神が爾後維持できなくなる懼れを示唆したわけです。(太田)
「19世紀末において、英国は50、フランスは33、ドイツは13の植民地を持っていた。
ポリネシアの98%、アフリカの90%、アジアの56%を超える地域が植民地になっていた。
この惑星全体で、わずかに7カ国しか完全な独立国はなかった。」(69)
→これは、米、英、独、仏、伊、墺、露の7カ国であると思われます。日本は、この時点で、治外法権こそ撤廃されていたけれど、まだ関税自主権を回復していなかった(回復は1911年(コラム#4303))ので、「完全な独立国」ではなかったわけです。
この傳で行けば、自衛権を占領時代に「押しつけられ」憲法によって制約されたままの戦後日本など、日米安保によって米国の属国になっていようといまいと、それだけで「完全な独立国」でないことは明白です。(太田)
「米陸軍はアーリア人を太平洋岸まで連れてきた。
今度はバトンが米海軍に渡された。・・・
1890年に、・・・米海軍大佐のアルフレッド・サイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan<。1840~1914年。海軍士官・地理戦略家(geostrategist)・歴史学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Thayer_Mahan (太田)
>)は・・・彼の講演集を出版した。
その本のタイトルは『海上権力史論(The Influence of Seapower upon History, 1660-1783)』<(コラム#4020)>だった。・・・
米海軍の伝統的アプローチは、米国の沿岸の保護という防衛的なものだった。
マハンは、海軍の攻撃的使命について説教したのだ。
米海軍は戦略的な世界における港群を奪取しなければならない。
この港一つ一つが、「富がそれによって集積するところの、交易の鎖の結節点となる」と。」(69)
→ターナーに引っかけて言えば、マハンは、陸軍による接壌的発展ができなくなった米国は、そのフロンティア精神を維持するためにも、今度は、海軍による海外への発展を行わなければならない、と主張した、ということになるでしょう。
マハンの眼目は、海外への発展にあたっては、領土全体を奪取するのではなく、軍事基地(及びその外延)群の奪取にとどめるべきである、と主張したところにあります。
もはや海外の国や地域の原住民を隔離(奴隷化を含む)したり放逐(絶滅を含む)したりすることが困難になりつつあった時代にあって、原住民全員を米国人として受け入れることによって、米国の「テュートン(アーリア)人」が原住民と混血して劣化することを回避するためには、そうするよりほかなかった、ということであったのではないでしょうか。
セオドア・ローズベルトの海外版人種主義的帝国主義のイデオロギー的基礎は、このようにして、ほぼ完成した、と言ってよいでしょう。(太田)
「<時あたかも、スペイン領のキューバでは叛乱が起こり、>1898年にはキューバの人口の3分の1%が<スペイン領キューバ当局によって>収容所に収容されて苦しめられていた。
その少なくとも30%が適切な食糧、衛生状態、そして薬品が欠如していたために亡くなった。
こうして40万人を超えるキューバ人が死んだ。」(71)
「多くの米国人は、キューバ人は、もっと米国のようになるべく叛乱していると思っていた。・・・
ウィスコンシン大学学長のチャールス・ケンドール・アダムス(Charles Kendall Adams<。1835~1902年。教育者・歴史学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Kendall_Adams (太田)
>)は、・・・1897年の卒業式で、「スペインが文明のために一体何を貢献したというのだ。スペインからどんな本、どんな発明が生まれたというのか。その実験室や科学分野でどんな発見がなされたというのだ。・・・およそ言及に値するものなどほとんどない。」と問いかけた。」(71~72)
→自分達を「チュートン(アーリア)人」と自己規定していたところの、米国の白人の大部分が非「チュートン(アーリア)人」たる白人の代表格のスペイン人に対して抱いていた甚だしい差別意識がよく分かりますね。(太田)
(続く)
セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その7)
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