太田述正コラム#4430(2010.12.11)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その8)>(2011.3.17公開)
「1897年9月、海軍省長官のロング(Long)がワシントンにいなかった時、<当時海軍次官の>ローズベルトは、<マッキンレー>大統領と三度会って、マッキンレーにスペインと直ちに開戦すべきだとし、米国はフィリピンを取るべきだと伝えた。
彼は、米議会にも根回しをした。」(75)
「<戦争嫌いのマッキンレーだったが、どんどん外堀を埋められ、彼は、>欧州流の帝国主義に反対する米国民の良心と適合させるべく・・・マッキンレーは、米国の軍隊はその人々が助けを必要としていると米国人達が決定した場合は、他の諸国に侵攻することができる、と主張することによって、彼は、やがて、<米国がその後>何度もそこに戻ってくることとなるところの、米国の伝統を創始したのだ。」(79)
→もう一つの伝統もマッキンレーが創始しています。
今回は引用しませんでしたが、米国(米軍を含む)が攻撃された場合です。
この攻撃には、米西戦争開始の引き金となったメイン号事件のように攻撃を受けたかどうか必ずしも明確でない場合・・現に事故であったことがその後判明・・や、真珠湾攻撃のように米国が相手国に開戦を余儀なくさせた場合が含まれるのが米国流であると言えるでしょう。(太田)
「<さて、米国がキューバを占領してみると、>キューバ侵攻以前には米国の新聞はキューバの戦士達の圧倒的多数は・・・白人であるように描いていたのだが、これらの新聞は、キューバ人は黒人であることをに落胆した米軍の影響で、キューバの自由の戦士について、今や、怠惰で盗人で人殺しの一団として描くようになった。」(81)
「<ローズベルト自身、>1894年に・・・書いた論説の中で、黒人は「完全に愚かな(stupid)人種」であって、黒人が「[古典]アテネ人」並みにさえ知的になるには「なお何千年も」かかると記していた。」(83)
→人種主義的帝国主義者たる当時の米国人達は、人種概念をTPOに応じて伸び縮みさせて平気であった、ということです。(太田)
「米国がキューバをコントロールするに至るや否や、米議会は、プラット修正(Plat Amendment)<(コラム#3670、3972)>を可決した。
それは、もともとの<同議会の>開戦決議で表明されたとことろの、慈悲深き意図を取り消したものだった。
キューバは、他国と条約を結ぶことを禁じられ、グアンタナモ湾を海軍基地として使用するために米国に割譲することを強いられた。
キューバの軍人総督となったレナード・ウッド(Leonard Wood)は、ローズベルトに対し、「プラット修正の下ではキューバに独立がほとんど、或いは全く<キューバの>独立など残されていないのはもちろんだ」と認めた。」(83)
→米国人が行う議会での議決とか官吏の口頭での約束(後出)といった法的拘束力のないものは、米国人は外国人に対しては守らない・・当時で考えれば、「米国人」は「米国の自らをテュートン(アーリア)人であると思っている者」、「外国人」は「それ以外の者」、で置き換えた方がいいでしょう・・と思った方がよい、ということです。(太田)
「<今度はフィリピンだ。スペインからの独立を期して戦っていた>アギナルド(<Emilio> Aguinaldo<。1869~1964年
http://en.wikipedia.org/wiki/Emilio_Aguinaldo (太田)
>)<(コラム#1628、1820、3660)>の最大の過ちは、米国が非白人たるフィリピン人の<スペインからの>独立を支援してくれると信じたことだった。
短期間しか続かなかったフィリピン共和国の大統領の時、彼は、内閣に対し、「私は米国の憲法を注意深く勉強したが、私はその中に植民地に係る権限を全く見出さなかった。だから、私は<米国に対して>恐れを抱いてはいない」と述べた。」(77)
「<彼は、米軍に助力をあおぐにあたって、文書を取り交わさなかったが、>後から振り返ってみれば、このフィリピン人の指導者は、スペインのフィリピン総督のバシリオ・アウグスティン・イ・ダヴィラ(Basilio Augustin y Davila<。1840~1910年
http://en.wikipedia.org/wiki/Basilio_August%C3%ADn (太田)
>)の<以下のような>警告に注意を払うべきだったのだ。
「・・・北米の水夫達は、・・・カトリック教をプロテスタンティズムで置き換え、君達を文明にはなじみ得ない部族として扱い、あたかも彼らが財産権などというものは知らないかのように君達の富を奪うだろう。」(86~87)
「フィリピンの最初の独立の日は、1898年6月12日に祝われた。
主要行事は、(今や大統領となった)アギナルドが主宰して、彼の古里の町でとり行われた。
彼は、自慢げに、この国の新しい旗を広げ、その赤、白、そして青の色は、「あの偉大な国が我々に私心のない保護の手を差し伸べ、引き続き差し伸べ続けるであろうことへの深甚なる感謝の念を表明するために、米合衆国の旗」に敬意を表したものである、と説明した。
しかし、フィリピン人は、もう1つの独立の日を祝うまでに、<実にその後、>64年を要することになるのだ。」(91)
→同様、米国憲法は、米国民だけを基本的に対象としたものですから、同憲法の理念や規定を踏まえて米国人が外国人を取り扱うであろうなどと考えては決してならないわけです。(太田)
(続く)
セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その8)
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