太田述正コラム#4434(2010.12.13)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その10)>(2011.3.22公開)
さて、この間、日本はフィリピンとどのように関わっていたのでしょうか。
「<米比戦争において、>「日本からも独立を支援するため志士が参加したが、武器弾薬を積んだ布引丸が沈没した<(注5)>ことやフィリピンに潜伏していた志士たちが捕縛されるなどして失敗した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD 前掲
(注5)「アギナルドによって日本に派遣されたマリアノ・ポンセ・・・は、宮崎滔天や中村弥六衆議院議員の支援を受けて、米比戦争のための武器弾薬(中古の村田銃)とそれらを運搬する布引丸を購入した。1899年7月19日に布引丸は長崎を出航したが、フィリピンへの航海中の7月21日午前、東シナ海寧波沖で暴風雨のため沈没した。布引丸には、フィリピン独立革命に参加するために日本人志士も同乗していたが、石川傅船長以下19名が犠牲となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E5%BC%95%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「その後、布引丸事件と日本人によるフィリピン革命参加の企てを知ったアメリカは日本に厳重に抗議し、日米両国による監視が厳重になった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E5%BC%95%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6 上掲
という具合であり、要するに日本政府は事態を放置していた、ということです。
その年の2月にフィリピンが正式に、弱体欧米列強たるスペインの領土から強大な欧米列強たる米国の領土になったというのに、当時首相であった山県有朋(正しくは「山縣」。1838~1922年。首相:1889~91年、1898~1900年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
)は、1899年(明治32年)10月11日付で「対韓政策意見書」を残しているだけで、フィリピンについては、全く沈黙しています。(『山県有朋意見書』254頁)
すなわち、彼は、この意見書の中で、「露国は・・・戦略上猶進んで朝鮮南東の沿岸に於て一の軍艦碇泊所の占領を唯一の方針とし彼の政府に迫り名を土地借用に藉り其目的を実行することを第一の政略とせり・・・露国若し<そんなことは止めよとの>我が忠告を拒絶したる時は地形上及び数百年に亘る日韓歴史の関係に起因する我利益<線>を抛棄するの政策を取るや否を決定せざる可らず是帝国ノ存亡興廃に係る重要問題な<り>」と述べており、対露戦略一本槍であって、日本が領有することとなった台湾と目と鼻の先のフィリピンを領有した米国、しかも、フィリピン独立運動を人種主義的帝国主義的に力でねじ伏せつつあった米国に対する警戒感を全く示していません。
米国が、米比戦争が事実上終わったとして、フィリピンの総督を軍人から文民に変える方針を明らかにした1900年(明治33年)に入ってからも、首相の山県は、「北清事変善後策」を8月20日付で残している(同上255頁)だけです。
彼の目は、前方の大陸にしか向けられていないのです。
山県は、「下関戦争や<日露戦争後の>三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢」をとり続けた政治家」であったとするのが最近の日本での有力説のようです(ウィキペディア上掲)が、人種主義的帝国主義に基づく「人種戦争」を日本帝国の裏庭にまで仕掛けてきた米国に対して、このような極楽とんぼ的姿勢を、山県が維持し続けたのには奇異の念を覚えます。(注6)
(注6)この点はともかくとして、山県はもっと評価されてしかるべき人物なのかもしれない。
「山縣は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求を批判した。山縣が政党を嫌った理由として、対外硬派が政党に多く存在したことが挙げられる。軍部大臣現役武官制の復活も、政党政治家が無謀な戦争に走ることを避けるためと考えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 前掲
恐らくは、この時点で、既に日本の外務省は、的確な米国情勢の分析に基づき、本国に注意を喚起するのを怠るほど職務怠慢であった、ということではないでしょうか。
米国人の抱く人種主義からして、日本人といえども非白人である以上当然差別と臣民化の対象と見ていたことは明白であったにもかからわず、日本の外務省が、米国の指導層の口にするタテマエ論としての「日本人は名誉白人」的な見解を、額面通りに受け止めていた可能性が大である、ということです。
このような外務省の誤った米国観が(誤った英国観とも相俟って)、その後、日本帝国を崩壊へと導くことになるわけです。
正面の脅威たる赤露によってではなく、背面の脅威たる米国によって日本帝国が崩壊したことは、何たる悲劇であり皮肉であることでしょうか。
(続く)
セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その10)
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