太田述正コラム#4442(2010.12.17)
<私の原風景(その3)>(2011.3.26公開)
  エ スミルナ(イズミール)
 「・・・スミルナは、この3つ組の都市の中で最初に多国籍となった。
 1813年には、その130,000人にも及んだ人口の中には、トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、そしてユダヤ人がいた。
 そのすぐ後には、<この3都市は、>そこに欧州の事実上すべての国から新しく到着した人々によってあふれかえった。
 オスマントルコの<、欧米諸国に対するところの、>治外法権等を付与する条約(Capitulation)のシステムによって、部外者達は、大いなる財政的便益を得た。
 それによって、彼らは、輸出入の関税の支払いを免除された。
 彼らは、混淆炉の中で繁盛し、自分達の財産を増大させたところの、貿易取引や有利な結婚を重ねた。
 最も偉大なる諸家族は、彼らが住んだこの3つの都市を体現するようになった。
 スミルナのホイットール(Whittall)家の例をとってみよう。
 彼らは、1809年に、リヴァプールから東方<のスミルナ>への初航海を行った。
 <同家は、>オーストリアの家族と結婚によって結合し、すぐに著名なギリシャ人達とも通婚し、その混淆した血統は、ポリカープ(Polycarp)・ホイットールといった名前に反映されるに至った。
 一体彼らはどの民族集団に所属していたのだろうか?
 彼らは、自分達の邸宅に(トルコが英国と戦争していた第1次世界大戦の間ですら)英国旗を掲げ、状況がそれを求めた時には英国歌を大声で力強く歌った。
 しかし、ホイットール家の5人が1906年のオリンピックではトルコを代表して選手になったし、彼らのはでばでしい英語には、トルコ語の言葉や表現が散りばめられていた。・・・」(C)
  オ ベイルート
 「・・・ベイルートの運命は、<他の2都市と比べて、>どれほど違っていたことだろうか。
 同市は、わずかの年月でムチャクチャになってしまった。
 1975年には、ベイルートは、世界中で最も危険な場所になった。・・・」(C)
 「・・・ベイルートは、<今後、>レヴァント化するのか部族化するのか、のどちらかを選ばなければならない。・・・」(A)
 (3)薄れ行く原風景
 「・・・<結局、>アレキサンドリアだけが、20世紀を、内部崩壊することなく乗り切ることができたのだ。・・・」(C)
 「・・・<他方、>今日では、ベイルートだけがレヴァント的であると主張することができる。
 スミルナは、1922年の火災、及び戦争に伴う掠奪によって徹底的に破壊された。
 アレキサンドリアは、古の色彩と多様性とを体系的に褪せさせられてきた。
 ベイルートだけ<において、レヴァント性>が、危うくも生き延びているけれど、同市は、常に大災厄の鳥羽口にいる。・・・
 アラブ人とスラブ人の次第に高まるナショナリズム、及びオスマントルコ帝国それ自体のトルコ・ナショナリズムの帝国的脆弱性が、レヴァントの3都市の宗教群と民族集団群の相互関係に脅威を与えた。
 第1次世界大戦の後、英国が拡大ギリシャ帝国構想を支援したため、ギリシャ人達は破滅的戦争へと鼓吹され、トルコのナショナリストたる指導者のケマル・アタチュルク(Kemal Ataturk<。1881~1938年
http://en.wikipedia.org/wiki/Mustafa_Kemal_Atat%C3%BCrk (太田)
>)<(コラム#10、24、163、164、165、167、228、658、673、1561、2646、2856、3425、3983)>自身の命令によってか、少なくとも黙認の下で、スミルナでの火災と虐殺が起きたのだ。
 ギリシャ人達は、殺害されるか逃亡した。
 <その結果、>この都市は、トルコ化してイズミールとなった。
 そこで、残ったのはアレキサンドリアとベイルートということになった。
 マンセルは、シリアとレバノンに対するフランスの委任統治の物語を語る。
 ベイルートの周りの小さな沿岸地域を新しいレバノンという国として分離したことは、機能しない民族的均衡を創造し、<レバノンにおいて、>1970年代における内戦をもたらした。・・・
 <また、>古きアレキサンドリアは、戦後世界の不寛容なナショナリズムによって圧倒された。
 1952年には、エジプトの最後の国王たる、太って道化師のようなファルーク(Farouk<。1920~65年。エジプトのムハマッド・アリ王朝の事実上最後の国王
http://en.wikipedia.org/wiki/Farouk_of_Egypt
>)<(コラム#586)>が追放された。
 マンセルは、彼の治世の最後の夜、この国王の「美しい妹妃ファイアズ(Faiaz)が恋人向けのナイトクラブで米国大使館の書記官とダンスをして」から釣りに行ったと記す。
 この二人が明け方に戻ってきた時、クーデタが始まっていた。・・・」(A)
 「・・・外国からの直接的介入は、致命的な結果をもたらすことがある。
 その最も悲劇的な事例が、第1次世界大戦後のギリシャ軍のトルコ侵攻だった。
 結局、それは、ギリシャ陸軍の大敗北と、スミルナのギリシャ人地区の恐るべき破壊とをもたらした。
 マンセルは、1882年の英国のアレキサンドリア侵攻についても恐ろしいほど批判的だ。
 当時、オスマントルコによる累次の残虐行為に対して抗議することによってその政治的キャリアを回復していたグラッドストーンが、技術的にはオスマントルコの土地であった場所において、残虐行為をやらせたのだ。
 この本には、1956年のスエズ事件で<英国がしでかした>大しくじりについて辛口で記している箇所もある。
 この事件によって、ナセルは、アレキサンドリアの全地球的エリート達を追放し、彼らのビジネスを国有化する機会を与えられた。
 その結果がどうなったかは予想された通りだ。
 <このように、>外国による介入と、トルコとエジプトの新しいナショナリズムによって、スミルナとアレキサンドリアの古の世界はかき消されてしまったわけだ。
 しかし、それが起きるずっと前から、様々な種類のナショナリズムがこの3つの社会を内側から蝕みつつあった。
 <例えば、>ギリシャの国民国家としての発展は、両都市におけるギリシャ人達の幾ばくかを急進化させており、彼らを反トルコ、反イスラム教にさせていたのだ。・・・」(B)
 (4)原風景の持つ現代的意義
 「・・・この本は、ノスタルジアに係る頭の体操をはるかに超えたものだ。
 それは、潜在的に、現代世界へのメッセージを孕んでいる。
 我々が現在考えるところの「多文化主義(Multiculturalism)」は、どちらかと言えば人工的な類の政治的議題だ。
 しかし、いくつかの場所において、はるか昔に、伝統的で保守的な、しかし、同時に社会的進歩と経済的ダイナミズムとを醸成したところの、1つの形態の多文化的現実が存在していたのだ。・・・」(B)
3 終わりに
 このような多文化的レヴァントが私の原風景であるわけですが、私にとっては、それは、アングロサクソン的世界と交錯しているところの原風景なのです。
 私が足かけ4年滞在していた当時の(英国の元保護国たる)エジプト、就中カイロのザマレック島とアレキサンドリアは、まさにそのような場所だったのです。
 (その後背地に凄まじい貧困があり、しかも、早くもかかる原風景を褪せさせる動きが始まっていたわけですが・・。)
 ついでに言えば、まことに奇遇ながら、社会人となってから、私が2年間留学した、スタンフォードを中心とする拡大サンフランシスコ地域も、また私が1年間留学したロンドンも、そのシティーを中心に、そういう場所だったのです。
 私は、日本は、本来的にアングロサクソン的世界と親和性を有すると考えています。
 その日本は、拡大弥生時代において統一国家となった当時、紛れもなく帝国的な(帰化人が活躍し、かつ縄文的・弥生的複合性を帯びた多文化的)世界であり、そのはるけき記憶の下、日本は、爾後も天皇、すなわち皇帝、を戴く国であり続けたのです。
 日本をして、その帝国性を取り戻させたい、というのが私のかねてよりの願いであり、だからこそ、私は、ヒト、モノ、カネの面での開国、とりわけ、ヒトの面における移民の積極的受け入れを唱えているわけです。
(完)