太田述正コラム#4464(2010.12.28)
<戦間期米国人の東アジア論(その2)>(2011.4.1公開)
3 スタンレー・ホーンベック(論文発表:1922年)
(1)紹介
ホーンベック(Stanley K. Hornbeck。1883~1966年)は、ローズ奨学金でオックスフォードに留学し、1909年から16年まで杭州大学など支那で教鞭を執り、パリ講和会議、ワシントン会議、北京関税特別会議などに専門家として参加します。
1920年代の大半をハーバード大学の極東史担当講師として過ごした後、28年から国務省に勤務し、37年まで極東部長、44年まで国務長官の政治問題担当顧問を務めました。
彼は、一貫して中国国民党政権擁護に努め、日本に対して厳しい姿勢を貫きました。
1944年に、当時ロンドン亡命政権でしかなかったオランダ大使に左遷され、47年に国務省を辞職し、その後、亡くなるまで執筆に専念する生活を続けます。
彼は、中華人民共和国の承認に反対し、韓国や南ベトナムを支援する政策には支持を表明しています。(100~101)
(2)論文
「われわれの対中政策は、アメリカ外交政策の伝統的・根本的一般原則を応用したものにすぎなかった・・・<その>原則とは・・・(1)自国も同様の取り扱いを受けることを<前提とした>他国並びに他国民の法的・道徳的権利・・・の全般的尊重。(2)条件付最恵国待遇の実践に基づく、商業上の機会および処遇の平等。(3)政治面では、同盟および侵略の自制。(4)外交的アプローチにおいては、強制よりむしろ説得を重んじる、という諸原則である。
原則と行動の間の矛盾もなくはなかったが、それでも矛盾は少なかったし、それが生じたのは、故意で自覚的というよりはアメリカの政治システムにつきものの継続性の欠如によるものだった。」(85~86)
→ここで、ホーンベックは大ウソをついています。
米国「外交政策の伝統的・根本的一般原則」は人種主義的帝国主義であって、米国政府が唱えた、門戸開放等の美辞麗句は、この原則を覆い隠す無花果の葉っぱに他ならないかったからです。(太田)
「義和団事件という1900年の出来事が中国の政治的将来に疑問符を投げかけたとき、アメリカは「中国の領土並びに行政の統一を保全」<すなわち、中国に関し、独立及び領土保全を確保するとともに、自由貿易及び商業上の機会均等を確保するところの、いわゆる門戸開放を実現>するような解決策を模索する方針であると明確に宣言した。ヘイ<国務>長官は、アメリカ以外の列強が同様の<門戸開放>原則にコミットすることを望み、すべての列強は、直ちにこの原則に対する支持をとにもかくにも表明した。」(87)
「1922年2月6日<の九カ国条約の第4条は>次の通りである。「締結国は各自国民相互間の協定にして支那領土の特定地方に於て勢力範囲を創設せんとし又は相互間の独占的機会を享有することを定めんとするものを支持せざることを約定す」<(現代表記に改めた。以下同じ(太田))>。ただし、この取り組みは今後にのみ適用され、過去にさかのぼって適用されないことに留意すべきだろう。」(92~93)
→米国は、(中国で特殊権益をほとんど持っていないところ、)他の列強が中国で既に持っている特殊権益には目をつぶってやるが、他の列強の新たな特殊権益の取得は認めない、すなわち、他の列強を中国における門戸開放(自由競争)に同意させる、そうすれば、一番経済力があって、しかも、日本や(インドシナを領有していた)フランスと並んで(フィリピンを領有していたことから)域内列強でもあった米国が論理必然的に支那において勝者になるはずだ、ということです。(太田)
「門戸開放政策(Open Door policy)の外交的パラドックスの一つである石井=ランシング協定<(注1)>も、(九カ国条約の条項の採択によって)そのすべてでないにせよ、少なくとも新しい合意条文に反する条項に関しては効力を失うと考えられている。」
→ただし、米国の力がまだ十分でないうちは、かかる門戸開放政策を非白人列強たる日本に対して厳格に遵守させることは控え、米国の力が十分になった時点で厳格に遵守させることを期す、という戦略で米国は、対日政策等の東アジア政策を推進した、ということです。(太田)
(注1)Lansing-Ishii Agreement。1917年11月2日、石井菊次郎駐米大使と米国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された協定。「中国の独立または領土保全」と「中国における門戸開放または商工業に対する機会均等の主義」を掲げつつ、日本の中国に係る「特殊の権利または特典」を認めることについて合意した。「特殊の権利または特典」とは、日本の満州・東部内蒙古に対する利益を指す。
1922年(大正11年)にワシントン会議で調印された九カ国条約の発効(1923年(大正12年)4月14日)により廃棄された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8D%94%E5%AE%9A
http://en.wikipedia.org/wiki/Lansing%E2%80%93Ishii_Agreement
なお、その前身として、高平小五郎駐米大使と米国務長官エリフ・ルートとの間で1908年11月30日に締結された高平・ルート協定(Root-Takahira Agreement)がある。
この協定は、「1908年11月時点における東アジア・太平洋にける日米の領土の現状を公式に認識し、清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等(すなわちジョン・ヘイによって提案されたような「門戸開放政策」)、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認、満州における日本の地位の承認から成っている。また暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満州南部の支配を承認し、そして日本はカリフォルニアへの移民の制限を黙諾した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B9%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8D%94%E5%AE%9A
4 ヘンリー・スティムソン(論文発表:1933年)
(1)紹介
スティムソン(スチムソン)(Henry L. Stimson。1867~1950年)(コラム#2498、2669、3796)は、弁護士でしたが、1929年にフーバー政権のもとで国務長官を1929~33年の間務めた後、ローズベルト政権の下で1940年に陸軍長官となり、原爆投下から京都を救った人物として知られています。
(2)論文
「1919年の連盟不加盟決定とその背景にあった政治的確執ゆえに、アメリカは国際聯盟加盟諸国との協調を完全に閉ざしてしまっていた。われわれは非介入の立場をとったばかりではなく、完全な孤立志向に陥っていた。」(109)
→反省の弁を明確に述べる点では好感が持てます。(太田)
「アメリカ政府は不戦条約を軸とする政策を一貫して維持してきた。1929年に満州北部でソビエトと中国間の武力衝突の危険が高まった際<(中東路事件。コラム#4004、4368)>には、アメリカ政府は不戦条約を軸に、50数カ国の条約加盟諸国との意思疎通をはかり、中ソ両国に紛争の平和的解決を提案した、また、1931年に満州で日中の軍事衝突が起きたとき、国際聯盟は折しもジュネーブで招集されていた連盟理事会にこの問題への対応を委ねたが、一方(連盟に参加していない)アメリカ政府は、不戦条約を軸にこの紛争当事国と直接交渉することで、平和に向けた他国との協調基盤を築いた。・・・
また、1932年1月7日にアメリカ政府は、日本が侵略の結果獲得したもの<に>ついては、これを認めないとする「不承認政策」(スチ<ママ(太田)>ムソン・ドクトリン)を表明したが、この政策もまた不戦条約を基盤としていた。この不承認政策は同年3月の国際連盟総会において全加盟国出席のなか連盟規約と不戦条約を強化するための明確な政策として採択され、確認された。」(110~111)
→日本以外についても言及していることも好感が持てます。
また、不承認政策は、実際問題として、日本にとって好意的な政策であったと言えるでしょう。(太田)
「世界平和の発展のためにフーバー政権は、世界全般に関して主張してきた同じ基準をためらうことなく自らの地域にも適用してきた。われわれは、西半球におけるアメリカの物質的、軍事的優位を背景に、世界中で平和的関係の発展に必要だと信じられてきた行動原則と異なるルールを主張することはしなかった。西半球地域は近接する地域であり、その性質上、われわれの繁栄はもちろん、我が国の安全にとって最も死活的な地域として例外的な重要性を持っているが、それでもわれわれは他の地域と同じ原則を適用した。ここでいう西半球地域とは、われわれの国防にとって大きな重要性をもつパナマ運河への入り口のパナマ地峡を含む中央アメリカ地域、カリブ海の島嶼地域である。
フーバー政権は当初から、ラテンアメリカの近隣諸国との関係改善を決意していた。われわれはラテンアメリカ諸国に対する政策を正義と善良なる意思のもとに実施し、強制的介入として誤解されたり、西半球諸国やその国民を搾取しているかのように受け止められかねない政策を避け、こうした姿勢を通じて、アメリカの出方に怯え、疑問を感じている人々を安心させるように心がけてきた。また、すでに軍事介入していたサントドミンゴ、ハイチ、ニカラグアから可能な限り迅速に撤兵させ、ニカラグアでは自由選挙を通じて自治政府の基盤整備という実験を成功させ、民衆に感謝されるなか撤兵を完了した。」(115)
→フーバー大統領は、米国史上希に見る偉大な大統領であり(コラム#597~599)、スティムソンの対日政策を含む対外政策は、当然のことながら、フーバー自身の対外政策であり、その政策がかくも公正なものであったことを我々は決して忘れないようにしましょう。
問題は、フーバーにせよ、スティムソンにせよ、彼らが19世紀末から戦間期の米国において、圧倒的少数派に属していたことです。(太田)
(続く)
戦間期米国人の東アジア論(その2)
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