時事コラム
2001年12月8日
ヒュースケン
西欧を野蛮な文明視している英国人が、西欧諸国の中で一番相対的に高く評価しているのがオランダです。オランダの商業的合理主義からは、英国と言えども、中央銀行制度とか、株式会社制度とか、様々なことを学んできました。名誉革命時の英蘭同君連合から始まり、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルに象徴されているように、英蘭両国が、様々なことを手を携えて行ってきたことも注目されます。そのオランダは、世界に「先駆けて麻薬、売春、安楽死、同性同士の結婚を合法化した国」(メール雑誌のJMM2001年12月7日号に掲載された春(はる)具(えれ)氏のエッセーによる)でもあります。合理主義的伝統(「超」合理主義的と言うべきか)は、脈々と受け継がれて現在に至っているわけです。
オランダと日本が、鎖国時代にも交流を続けていたことを知らない人はいないでしょう。しかし、米国の初代日本大使であったハリスの随員として活躍し、29才を目前にして江戸で凶刃に倒れたヒュースケンがオランダ人(21才の時に自ら米国にわたって米国籍をとった)であったことはご存じでない方も少なくないと思います。
岩波文庫から、「ヒュースケン日本日記 1855-61」が出ているので、関心のある方は読んでみて下さい。なかなか面白いですよ。この本を読んだ際のかつての私の感想を以下に記します。
まず、驚くのは、ヒュースケンが日記をフランス語(=西欧における当時の国際標準語)で書いていたということです。彼は、母国語たるオランダ語、そしてこのフランス語のほか、当然、国籍を持っている米国の英語ができますし、来日後は日本語も身につけます。ヒュースケンは、オランダ語の通訳しかいない日本で(英語しかできない)ハリスが外交交渉をやるので、採用されたわけですが、このように、多種多彩なバックグランドと能力を持った人間が寄せ集まってできた国である米国のすごさを感じます。
ヒュースケンの能力は語学力だけではありません。彼は、極めて洞察力に富み、かつ先見性のある若者でもありました。彼は、米国の軍艦で日本に赴任する途中、南アフリカに寄港した際、「征服と領土拡張の欲望は、この世紀をもって終わりとされねばならない。私は喜望峰の支配者が変わって、<英国から>再びオランダの管轄に帰ることは望まない。」(58頁)と植民地主義、帝国主義批判をさらりと記していますし、「日本人の質素なことは、まことに古代スパルタ人に匹敵する。この日本で、第一級の大名である人の邸(と呼んでもよければだが)でさえも、部屋の様子は、見たところ下田の商人の家となんら変わりがない・・虚飾や華美はまったく目につかない。」(143頁)、「日本の宮廷<(幕府)>は、たしかに人目を惹くほどの豪奢さはない。廷臣は大勢いたが、ダイヤモンドが光って見えるようなことは一度もなかった。わずかに刀の柄に小さな金の飾りが認められるくらいだった。シャムの宮廷<(ハリスは注シャム大使でもあり、ハリスとヒュースケンは、日本に到着する前にシャムに一緒に立ち寄っている)>の貴族は、その未開さを泥臭い贅沢で隠そうとして、金や宝石で飾りたてていた。しかし江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳をそなえた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光をそえる洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイヤモンドよりもはるかに眩い光を放っていた。」(220頁)というくだりは、日本の何たるかの本質をついています。そして、「いまや私がいとしさを覚えはじめている国<日本>よ、この<西洋による>進歩はほんとうに進歩なのか?この<西洋>文明はほんとうにお前のための文明なのか?この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである。」(221頁)は、来るべき文明開化した日本の運命を予言していると言うべきでしょう。
興味深いのは、ヒュースケンが、巧まずして、アングロサクソンと西欧との間に横たわる深淵について語っていることです。「「・・いままで<ポルトガル→オランダ→英国、と宗主国が変わった>セイロンを支配した三国のうちで、どの国がいちばん好かれていましたか」<とたずねたところ、在セイロンのあるオランダ人は、>「それはもちろんイギリス人です。・・オランダ人は・・鉄の規律で統治し、土民に尊敬と従順を守らせることを知っていました<が>・・奴隷制度を廃止し、衡平的な法律を布いいたのはイギリス人ですから。」(70頁)、「約四十年前にはシンガポールは存在もしなかったが、現在では東インド地方でもっとも賑わっている港の一つである。それはシンガポールが自由港であるためなのだが、それなのにオランダ人は、多くの実例を無視して、独占貿易という愚かな方法を押しとおしている。」(80頁)、「イギリス人という怪物は、東西両インド諸国の有望な土地が王室のものになると、きまってそこで奇蹟を起こしてみせるようであるが、ここの香港にもぬかりなくその姿をあらわしていた。・・まったく顧みられなかった入江が、いまでは世界各国の船でいっぱいにな<っている>」(107-108頁)、「日本における異教徒迫害・・新来の宗教<(キリスト教)>に加えられた残虐行為を理由としてあまり日本人を責めることはやめよう。信徒たちは、主の戒めを忘れ、日本を荒廃させている内乱に加担した。われわれ<西欧>自身の歴史をふりかえってみても、異端審問の火は容易に消えなかったし、カルヴィンはセルヴェトゥス<(三位一体説を否定したために焚刑に処せられたスペイン人医師)>を殺し、神聖同盟の加盟者たちは、聖バルトロメオの宵にユグノーを虐殺した。・・われわれヨーロッパ人も、・・狂信的であったのだ。」(220頁)と。
私の持論は、日本とアングロサクソンは本来的な同盟関係にあるというものですし、西欧とアングロサクソンをひとくくりにするハンチントンの粗雑な「文明の衝突」論にうさんくささを覚えてもいます。ところが、同趣旨のことをヒュースケンは、一世紀半も前に、しかも二十台にして示唆していたのですから、彼の慧眼には脱帽するばかりです。