太田述正コラム#4490(2011.1.10)
<日露戦争以後の日本外交(その4)>(2011.4.6公開)
「日露協商<(注1)>及び英露協商<(注2)(コラム#4303)>の先導役としての役割を担った日仏協商<(注3)>は<1907>年6月10日調印された・・・。」(301~302)
(注1)Russo-Japanese Entente。日露協約とも言う。1907年7月30日調印(第1次条約)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84
(注2)Anglo-Russian Entente。英露協約とも言う。1907年8月31日調印。「イラン、アフガニスタン、チベットにおける両国の勢力範囲を決定した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Russian_Entente
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E9%9C%B2%E5%8D%94%E5%95%86
「英露協商の調印によって、既に成立していた露仏同盟<(Franco-Russian Alliance。1892年起草、1894年完成)>、英仏協商<(Entente Cordiale。1904年4月8日調印)(コラム#309、310)>とあわせ、<対独墺伊三国同盟の>三国協商<(Triple Entente)>が成立した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Russian_Alliance
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%BB%8F%E5%8D%94%E5%95%86
三国同盟(Triple Alliance)(コラム#309)は、1882年に締結された「ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアによる秘密軍事同盟。独墺伊三国同盟ともいう。・・・「未回収のイタリア」と呼ばれる南ティロル、トリエステなどを巡りオーストリアとの領土問題を抱えていたイタリアは、1902年には、ドイツがフランスを攻撃する際にはイタリアは参加しないことを約束した仏伊協商をフランスと結ぶなど、三国協商側に接近しつつあった。 そのイタリアが1915年4月、イギリスとの間に未回収のイタリアをイタリアに割譲することを約束したロンドン秘密条約を秘密裏に結び、5月には連合国側に付いてオーストリアに宣戦したことにより、三国同盟は崩壊した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F_(1882%E5%B9%B4)
(注3)Franco-Japanese Entente。日仏協約とも言う。「フランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを約束した。また、両国は清の独立を保全するとともに清国内におけるお互いの勢力圏を認め合った。これによってフランスは広東・広西・雲南省を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建省を自国の勢力圏として相手国側に承認させた・・・。
同年に<更に>日露協約を締結した日本は三国協商陣営の事実上の一員に加わることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%BB%8F%E5%8D%94%E7%B4%84
→要するに、日露戦争によって弱体化し、しかし自由民主主義化しつつあったロシアが、英国によって対独(墺)包囲網にがっちり取り込まれたということです。その結果、第一次世界大戦が始まった直後には、(米国を除いて)英日仏露伊v.独(墺)という対戦状況が現出したわけです。
第二次世界大戦が始まった直後の(米国を除いて)英仏露v.独(墺)日伊・・ただし、露はスターリン主義下・・という、英国にとってより不利かつ不自然な対戦状況と比較すると感慨深いものがありますね。
さて、少し時計の針を元に戻します。(太田)
「<1906>年2月26日には、「明治39年年度日本帝国陸軍作戦計画」が大山巌参謀総長によって上奏裁可されたが、それはロシアを想定敵国に決定していた。そして、遂に<1907>年4月4日に初度制定の「国防方針」が制定される運びとな<り、>・・・第一想定敵国をロシアと決定し、同時に国防に必要な兵力を戦時50個師団、戦艦8隻装甲巡洋艦8隻と定めたのである。
しかし、日本政府では、・・・対露警戒論と戦後の米国資本の満州攻勢<(後出)>に鑑み・・・<かつ、>日英同盟も昔日如くイギリス側が熱心ではなくなったことにも鑑み>・・・、ロシアと対決するよりはむしろロシアと強調する方針を採るに至った。
<しかし、実際に最初に話をもちかけてきたのはロシア側だった。>」(303~304、306)
「<1907年>7月30日に、日露協約<(注4)>が調印された。・・・
ポーツマス条約が戦争を終結させたとするならば、日露協商は両国間の友好関係を真に回復させたものであった。・・・
日本は第一次世界大戦前のヨーロッパの同盟協商体制に於いて、「一人前のメンバー」(a full-fledged member)と見做されることになった。・・・
しかも、この日露協商は、日仏協商と英露協商の成立も相俟って、従来アジアで対立していた日英同盟と露仏同盟を結合させ、今後ドイツに対抗する三国協商の包囲陣を構成することになったのであった。」(309~310)
(注4)「公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84 前掲
→一体、(既にイタリアが三国同盟から離脱しつつある中で、)こんな対独包囲網が構築されていたというのに、どうして第一次世界大戦が起こったのか不思議に思えてきます。
当時のドイツ皇帝のヴィルヘルム2世がいかに無謀であったか、ということです。
そんなヴィルヘルム2世も、さすがに米国が対独包囲網に更に加わっておれば、第一次世界大戦への突入は避けたはずです。
前述したところの、1905年2月に桂首相に対して、日本は旅順と韓国領有をというローズベルトの見解を伝えた米民間人はジョージ・ケナン(George Kennan<。1845~1924年。探検家・ジャーナリスト。あの有名なジョージ・ケナンの親戚
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Kennan_(explorer) (太田)
>)でしたが、彼は、「<1905>年初めルーズベルトに対してアメリカが日英同盟に加入することを提案していたが、それに対してルーズベルトは条約の上院通過の困難なことを挙げて殆んど無理なことであると説いていた」(119)ところ、米国がこのような「名誉ある孤立」を漫然と、いや傲慢にも続けていたことが第一次世界大戦の惨禍をもたらした、と言っても過言ではないでしょう。
そして、第一次世界大戦が起きてドイツが敗北し、苦境に陥ったこと、そしてこれに加えて米国が日英同盟まで破棄させたこと、が今度は第二次世界大戦の惨禍をもたらしたのです。
しかも、第一次世界大戦が起きなかったら、ロシアの10月革命も起こらなかったはずであり、従って、共産主義国の出現と共産主義の世界への蔓延とそれに伴う大災厄もまた生じなかったはずです。
このように見てくると、20世紀への変わり目頃から以降、米国が人類に対して犯した罪は、単に東アジアにおいてだけにとどまるものではなく、全世界においてであった、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)
日露戦争以後の日本外交(その4)
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