太田述正コラム#4498(2011.1.14)
<ワシントン体制の崩壊(その1)>(2011.4.10公開)
1 始めに
引き続き、XXXXさん提供の細谷千博・斎藤真編『ワシントン体制と日米関係』(東京大学出版会 1978年)の抜粋をもとに、その更なる抜粋を紹介するとともに、それに私のコメントをつけたものをお送りしましょう。
この本は、上記の二人の編者を含む18人のアンソロジーであり、私が大学を卒業した1971年からそれほど時間が経っていない頃の出版なので、学部で「アメリカ政治外交史」の授業をとった斎藤真、「日本政治外交史」の授業をとった三谷太一郎の両教授が登場して懐かしい限りです。
この本が出てから3分の1世紀が経過していますが、冷戦終焉後、ソ連関係文献にあたることができるようになったことから、同様の編著がその後改めて上梓されていてしかるべきところ、どうやら上梓されていなさそうなことは残念です。
2 細谷千博「ワシントン体制–その特質と脆弱性」
「ワシントン会議の結果、東アジアで成立した新しい国際政治システム–ワシントン体制–の特質は、日・米・英の協調システム<であり、>・・・それは、日英同盟、日露協商によって典型的に代表される、第一次大戦前の二国間政治提携–それによって後進民族を犠牲として、勢力範囲の設定や政治的・経済的膨張をはかろうとする帝国主義的な外交方式–の否定を目ざす、新たな多数国間の提携システムの設定を試みたものであり、また、いわば、「旧外交(Old Diplomacy)にかえるに「新外交(New Diplomacy)」の理念にもとづく、東アジアの新たな国際政治秩序の実現と見ることもできる。」(3)
→これは、米国の唱えたタテマエ論をそのまま祖述しているに過ぎません。
米国に先行して、東アジアにおいて、「勢力範囲の設定」を行うことによって、「政治的・経済的膨張をはかろうと」してきた大英帝国と、「勢力範囲の設定」を行うことによって対ロシア安全保障を追求してきた日本帝国、の両国にそれぞれの勢力範囲を拡大させず、機会をとらえてそれぞれの勢力範囲の縮小を図ることによって、この東アジアにおいて、米国が、人種主義的帝国主義国として、「政治的・経済的膨張をはかろうと」した体制がワシントン体制である、ととらえるべきでしょう。(太田)
「次に、この新しい政治システムの特質は、日・米・英の提携システムがいわば支配的システム(Dominant System)として、東アジアの地域政治システムで優越的な影響力をもつ一方、この東アジア・システムの中で、中国がマイナーなアクターとして従属的地位をあたえられたことである。いいかえれば、日・米・英と中国との間には、支配・従属システム(Dominant-Subordinate System)の設定が試みられたのである。」(4)
→このような措定の仕方もおかしいのではないでしょうか。
不平等条約下にあったこの時期の支那は、同じく不平等条約下にあった明治初期の日本と基本的に同じであると見るべきところ、後者が従属的地位にあったという言い方がされることはないからです。
もとより、前者の不平等条約の不平等度は後者のそれよりも大きかった上、前者に関しては、後者と違って列強が勢力圏を設定していたし、やはり後者と違って割譲地や租借地があった、という違いはありましたが、ある地域が特定の列強の勢力圏とされたところで、その範囲内を他国に租借させたり、割譲したりしないことを清朝ないしその後継政権に認めさせたというだけのことでした
http://www.geocities.jp/sekaishi_suzuki/p_web/09_No309.pdf
し、割譲地や租借地は支那全土から見ればほんの僅かなものに過ぎませんでした。(太田)
「第三の特質として指摘されるのは、革命外交を標榜し、異質な対外行動原理をもつソヴィエトを、いわばワシントン・システムの内部に包摂せず、これをシステム外のアクターとして処理するという形で、システム構成が行われたことである。」(4)
→これは間違ってはいません。
日本と英国は、東アジアにおいて、一貫してロシアを安全保障上の脅威ととらえてきており、10月革命以降のロシアの脅威を赤露の脅威として深刻視していました。
これに対し、米国はロシアないし赤露の脅威を深刻視していませんでした。
しかし、そんな米国も1933年まではソ連を承認していなかった(ちなみに、英国のソ連承認は1924年、日本のソ連承認は1925年。米国のソ連承認は日本の満州国承認に対抗するために行われた)
http://www.c20.jp/1933/11a_syo.html
http://www.ne.jp/asahi/wh/class/q_eer.html
のであり、日英米としては、ソ連を「ワシントン・システム・・・外のアクターとして処理する」以外にありえませんでした。(太田)
「ワシントン・システムについては、もとよりソヴィエトはこれに全面的に挑戦する基本的態度をとり、たとえば四国条約<(注1)>については、「ソヴィエト、極東の諸国の民族解放運動に対して向けられた帝国主義国家の共同謀議」としてこれを性格づけ、非難する。」(5)
(注1)「太平洋地域に権益を持つ<米>国と日本、イギリス、フランスとの間における太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
このウィキペディアの記事は、太田史観に近い史観で書かれているが、米英が同盟国であるといった誤った記述があるのは残念である。
「ワシントン体制に挑戦するソヴィエト外交の重点は、体制内の従属アクターであるちゅうごくとの外交敵連繋を明らかに志向していた。1924年5月31日、両国の国交回復を規定した中ソ協定が調印を見る。それは、ヨーロッパの戦後の政治システム(ヴェルサイユ体制)に挑戦した独ソ間のラパロ協定(1922年4月16日)<(注2)>と相似た歴史的意義をもつと指摘することもできよう。この協定によって、ソヴィエトはツァー政権が中国で獲得した一切の特権や利権、また治外法権や領事裁判権を放棄すること、さらに平等と互恵の原則にもとづく新通商条約の締結などを約束した(ただし、東支鉄道の管理権については留保)。・・・
しかし、中国との連繋による、ソヴィエトの挑戦として、より重要な歴史的機能をはたしたのは、中国の民族解放運動に対するソヴィエトの支持であった。有名な孫文・ヨッフェ共同宣言(1923年1月26日)<(注3)>によって、中国国民党の指導するナショナリズム運動への支持的態度を公にし、さらにはボロディン<(注4)>の広東への派遣、そして1924年1月の国共合作の実現といった過程において、ソヴィエト、もしくはコミンテルンのはたした役割は大きかったと見られる・・・。」(6)
(注2)ラパロ(ラパッロ)条約(Vertrag von Rapallo)ともいう。イタリアのラパッロで、ブレスト=リトフスク条約と第一次世界大戦にもとづく領土及び金銭に関する主張を互いに放棄した上でドイツ(ワイマール共和国)とソ連との間で成立した条約であり、これによりドイツはソ連を承認した最初の国となった。
なお、ベルサイユ条約違反であるところの、ソ連領内におけるドイツの軍事訓練を認める秘密の付属条項が7月29日に調印された。
http://www.ne.jp/asahi/wh/class/q_eer.html 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%AD%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1922%E5%B9%B4)
(注3)「上海における孫文<(コラム#228~230、234)>とソ・・・連・・・代表アドリフ・ヨッフェ<(Adorif Abramovich Yoffe。1883~1927年。ユダヤ系ロシア人。トロツキー支持者であり、自殺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7
)>の共同声明<(コラム#228)>は中国統一運動に対するソ・・・連・・・の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソ・・・連・・・の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
(注4)ミハイル・ボロディン(Mikhail Markovich Borodin。1884~1951年。現在のベラルーシ生まれ。)
ボロディンは、コミンテルンの工作員であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
「ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧問となった。ボロディンの進言により1924年、中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、黄埔軍官学校も設立された。1925年にはソビエト連邦と中国共産党により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87 前掲
(参考)「1927年・・・5月12日、ソ連の貿易代表部であったアルコスのロンドン事務所が捜索を受け(アルコス事件)、その際に重要な文書としてモスクワのソ連外務省から北京の工作員に向けて打電された公式電報の写しが見つかった。そこには「北京におけるソ連代表が任命されるまで、同志ボロディンがモスクワから直接送られてきた命令を実行すること」と書かれていた。ボールドウィン政権はソ連のスパイ活動及び破壊活動を非難し、5月26日には英国とソ連は国交を断絶した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3 前掲
→中国国民党は1923年に赤露のエージェントとなった、と言っても過言ではないでしょう。
その後、蒋介石が、国民党のファシスト党化を図りますが、党の内からはエージェント残党、外からは、文字通りの赤露のエージェントであった中国共産党の挟撃にあい、紆余曲折を経て、結局、1936年12月の西安事件を契機に第二次国共合作
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
を余儀なくされ、ここに再び国民党は赤露のエージェントに成り下がるわけです。
その後のことは、ご存じのとおりであって、日本帝国の瓦解を経て、支那全体が赤露の勢力圏に入ることになります。(太田)
(続く)
ワシントン体制の崩壊(その1)
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