太田述正コラム#4504(2011.1.17)
<ワシントン体制の崩壊(その4)>(2011.4.13公開)
「1927年1月、漢口、九江への国民革命軍<(国民党軍)>の実力行使の事態は、日本国内の対華権益への危機感を一挙に高めるとともに、国際協調、とりわけ対英提携の必要性に各層の目を向けしめた。・・・
関西財界の中には「列国協調が不可能」な場合には「断乎たる処置」をとる必要があり、陸軍の派遣も考慮すべしとする意向も強かった。このような強硬論に野党の政友会が傾いていたことはよく知られている。・・・
このころ、日英共同出兵の意向が日本陸軍の内部にあるとの松井(石根)参謀本部第二部長の発言がイギリス側に伝えられていた。かくて、イギリス政府は日英共同で陸兵を派遣、上海の共同租界の警備にあたりたい旨を、1月20日、日本政府に申入れる。しかし、幣原<喜重郎(注14)>外相は、この提案を直ちに拒否した(1月21日)。・・・
「幣原外交」を「国際協調主義」と性格づけることは正しい。ただ、日・米・英三国協調システムの枠組み内におけるに日本外交の位置づけについての、彼のイメージはアメリカに近く、イギリスに遠い地点にあったようである。ティリー駐日英大使も、しばしばそのような観察を下している。
幣原は、イギリス側の行う「ボリシェヴィズムの脅威」のシンボル操作にも容易に同調しなかったし、この時期にはむしろボリシェヴィズムの退潮というイメージすらしめしていた。さらに、チェンバレン外相が、ワシントン付加税の無条件承認という、日本の意向に反した措置を、一方的に行ったことに対しては極めて憤激の念をもっていた。さらに加えると、幣原が次官当時の、シベリアでの共同出兵の無残な失敗のメモリーは、未だ生々しく、慎重な態度形勢への一因となっていたことでもあろう。」(18~19)
(注14)1872~1951年。外相:1924~27年、1929~31年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
→ここでも、あえて、赤露との距離でもって横に並べてみると、「赤露/中国共産党」>「中国国民党(国民革命軍)」>「米国/幣原」>「英国/日本世論/帝国陸軍」、となるのであって、幣原が、米国と協調はしても英国とは協調しなかったため、英国は、中国国民党懐柔政策をも併せ採ることを余儀なくされた、ということでしょう。
外務官僚(幣原)は、早くもこの時点で大きな過ちを犯し、日本帝国瓦解の遠因をつくった、と言えそうです。
幣原は、支那についてはもちろん、ロシア(赤露)についても米国についても無知、英国についてすら半可通、であったとしか思えませんが、当時の「優秀」と目された外交官の教育訓練やキャリアパスに、深刻な瑕疵があったのではないでしょうか。
「昭和6年(1931年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。」(ウィキペディア上掲)は、典拠が直接示されていませんが、事実であるとすれば、幣原は、この時、前回の外相時に輪をかけた大きな過ちを犯したと言うべきでしょう。その直後に関東軍は満州事変を決行することになり、日本は国際的批判の嵐に晒されることになります。(太田)
「日本の同調をえられず、イギリスは結局単独出兵の決定、三個旅団計1万3000の陸軍を、ヨーロッパとアジア方面から上海に派遣することになる。・・・
アメリカ政府・・・<は、1927年>1月27日・・・「関税と治外法権の問題全般について交渉継続の用意がある。場合によってはアメリカ単独で交渉を行う用意すらある」との・・・ケロッグ<(注15)>声明を出<した。>マクマリー<駐支>公使<(注16)>は「これによって列国に共通な集団的利益をアメリカは裏切っているとの非難を日英両国から招くことにもなりかねない」として反対であったが、・・・ケロッグ長官の意向で押しきられた。ワシントンの協調システムに亀裂が生じつつあったのは確かだった。・・・
<しかし、>3月末、国民革命軍の上海接近で、情勢は緊迫化し、イギリス陸軍に加わって、日米も陸戦隊を上陸させ、列国の陸上へ威力は1万2500に達した・・・。そしてこの年の春から夏にかけて、中国の新事態に対応して、システムは機能回復の徴候すらしめしてくる。・・・
<1927年>3月24日の南京事件<(注17)>の発生は各国にとって大きな衝撃であった。事件にさいして、居留民保護の目的で、英米両国の砲艦から砲撃が行われ、これに日本砲艦が参加しなかったことはよく知られている。4月3日には漢口事件<(注18)>が発生、このさいは日本居留民保護のために陸戦隊約200名が上陸、日本租界を武力で保護した。・・・
かくして、中国に対し、何らかの実力手段を列強が共同で行使すべしという点で、イギリスと日本陸軍とは共通の立場をとりつつあった。そして制裁手段の行使に反対する幣原外相は、アメリカ政府に同調者を見出していた。4月6日、グルー次官<(注19)>と会見した松平(恒雄)駐米大使は、制裁は・・・「穏健分子」の立場を弱める効果を生み、・・・外国人に不利をもたらし、逆効果をまねくであろうとし、「現時点においては、いかなる制裁手段の行使にも同意があたえられるべきではないという点において、アメリカ政府はわが方とまったく見解を一にしている」と、語っている。」(22~24)
(注15)フランク・ビリングス・ケロッグ(Frank Billings Kellogg。1856~1937年。クーリッジ大統領の下での国務長官:1925~29年)。不戦条約(「戦争抛棄ニ関スル条約」。1928年(昭和3年)8月27日に米、英、独、仏、伊、日といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソ連など63か国が署名した。最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。)に係る功績により、ノーベル平和賞受賞。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frank_B._Kellogg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
(注16)ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー(マクマレー。John Van Antwerp MacMurray。1881~1960年。駐支公使:1925~29年)。コラム#48、221、549、1122、3324、3328、3446、3674、3677、3789、4060、4093、4425。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC (英語のウィキペディアは存在しない!)
(注17)「1927年3月24日・・・<国民党の>北伐軍が南京に入城した。・・・当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人、丁1人の死者、2人の行方不明者が出た。この際、日本領事館も襲撃され、暴行や掠奪、領事夫人が陵辱されるという事態となり、領事館を引き上げ軍艦に収容された。下関に停泊中の<米英>両軍は・・・城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。日本の陸戦隊も25日朝に上陸した。・・・多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀といわれている。・・・
蒋介石は、29日に九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。
また、南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを<北京政府・・当時の実質的最高権力者は張作霖>に勧告した。その結果、4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があった・・・。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。
4月9日、ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。4月12日、南京の・・・蒋介石は、上海に戒厳令を布告した。いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。この際、共産党指導者90名余りと共産主義者とみなされた人々が処刑された。また、英国は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した。・・・
・・・南京に国民統一政府が組織されると、1928年4月にアメリカ、8月にイギリス、10月にフランスとイタリア、1929年4月に日本と、それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1927%E5%B9%B4)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%94%BF%E5%BA%9C (<>内)
(注18)直接的な典拠が見あたらなかったが、参考文献が4冊挙げられている、間接的な典拠を挙げておく。
「1927年(昭和2年)4月、<漢口で>日本の水兵が散歩していると子供が石を投げてきて、水兵が追っ払う、そんなことをしている内に・・・暴徒は凶器を持って手当たり次第に<日本租界を>破壊し、略奪<を始め>ます。・・・揚子江一帯に住む約3,000人の日本人は長年苦労して作り上げてきた財産、資産、家宅を手放し命からがら日本へ帰ってきました。」
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20090925/1253834815
(注19)ジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew。1880~1965年。米国務次官(Under Secretary of State):1924~26年、1942~45年、駐トルコ大使:1926~32年、駐日大使:1932~42年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Grew
なお、このウィキペディアによれば、1927年4月には、グルーは既に次官を辞めていて駐トルコ大使であったはずなので、細谷が正しいとすれば、ウィキペディアが間違っていることになる。
→どちらもノーベル平和賞受賞者でこそあれ、(当然のことながら、)英国のチェンバレン外相と米国のケロッグ国務長官は、国際情勢把握能力に関しては、後者が前者に著しく劣っていた、いうことです。
そんなケロッグに同調し続けた幣原ら日本の外務官僚達は、日本の世論(現地日本人の世論を含む)に鈍感でかつ外交官として無能の極みであり、これに比べれば、当時の帝国陸軍は、日本の世論への共感能力も、チェンバレン並みの国際情勢把握能力も兼ね備えていた、ということになります。(太田)
「1927年4月20日、若槻内閣に代わって、田中(義一)内閣が成立、田中首相は外相を兼摂、ここにいわゆる「田中外交」の開幕を見ることになる。・・・
ティリー英大使との初会見(5月3日)で。田中新外相は、「日英同盟はもはや条約としては存在してないが、同盟の精神はいぜん活きており、その精神の維持をはかる上で力の及ぶかぎりのことをするだろう」と・・表明。・・・
5月13日、ティリー大使は田中外相に、「今後支那を相手とするに当り日英両国の間に一定の諒解若くは協定を遂げ置き之に基きて日英共同に若くは共通の措置を執ることとし度し」とのチェンバレン外相の希望を伝える・・・。
田中内閣は、5月28日、山東への派兵を声明し、在旅順の陸軍兵力の2000名の青島への派遣を実行に移す。このいわゆる第一次山東出兵<(注21)>の性格を理解するにあたり、そのもつ日本居留民の「現地保護」という意義とともに、この年1月いらい陸軍から提唱されていた「日英共同出兵論」の文脈の中でこれをとらえる必要があるであろう。・・・また4月中旬には、イギリスは日米両国に華北への共同出兵の提議を行っていたのである。」(24~25)
(注20)1864~1929年。陸相:1923~24年、政友会総裁:1925~29年、首相兼外相:1927~29年。憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。張作霖爆殺事件で首相を辞任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
(注21)「1926年(大正15年/昭和元年)、中国の蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始した。日本政府は、中国内の日本権益が北京政府の支配地に多いことから、これらが北伐軍に侵されることを恐れていたが、翌1927年(昭和2年)、漢口の民衆が日本の海軍陸戦隊と衝突する事件が発生、これを機に中国人の反日感情が再度爆発し、日貨排斥運動となった。
その上、北伐軍は山東省に接近、・・・日本は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。
日本と関東州の大連及び天津から南下した日本軍は首尾よく展開、治安維持活動を開始した。しかし、蒋介石の北伐軍は張作霖に敗北して山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%87%BA%E5%85%B5
→陸軍大将(退役)たる田中義一を首相とする政権の下で、しかも、彼が外相を兼ねることで、一時ですが、日本の対外政策がまともになった、ということです。なお、この頃、吉田茂が外務次官を勤めています。(太田)
(続く)
ワシントン体制の崩壊(その4)
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