太田述正コラム#4526(2011.1.28)
<ワシントン体制の崩壊(その13)>
7 ウィリアム・R・プレイステッド「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」(麻田貞雄訳)
 当時テキサス大学教授で恐らくは米国人であったプレイステッドの執筆したこの論文、散漫なのが残念ですが、テーマが貴重であるので、つまみ食い的にご紹介しましょう。
 「日本がアメリカ海軍の作戦計画に登場するのは、早くも1897年5月のことである。すなわち、モントゴメリ・シカード海軍少将を長とする特別委員会が、ハワイをめぐる対日戦争とキューバをめぐる対スペイン戦争という同時作戦のプランを起草したのである。」(415~416)
→セオドア・ローズベルト海軍次官の命により、とどうしてプレイステッドは書かなかったのでしょうね。(太田)
 「海軍大学(Naval War College)」が、1911年の「オレンジ計画」<(=対日作戦計画(コラム#1614、1621)>において下した判断は、もし戦争勃発時にアメリカの戦闘艦隊が大西洋側にいる場合、<パナマ運河がまだできていなかったので、>艦隊が遠路南米を迂回して太平洋に出撃してくる前に、日本はフィリッピン、グァム、ハワイ、アリューシャン列島を攻略してしまうことができよう、というものであった。」(417)
 「第一次世界大戦でドイツが敗北した結果、イギリス、アメリカ、日本の三国が、世界の海洋支配をめぐって競争あるいは勢力を分担する三大海軍国となった。・・・アメリカの海軍戦略家たちは1919年以降、もはやドイツの牽制を受けなくなったイギリスが、その海軍優位と通商支配を回復するためにアメリカに敵対してくるのではないか、と懸念するようになった。」(418)
 「1919~20年、海軍将官会議および海軍作戦部で起案された作戦計画は、イギリスと日本の両国(当時まだ日英同盟の絆で結ばれていた)に対する根強い疑惑を反映していた。・・・立案者たちは、・・・イギリスは対米戦争の場合、日本を味方につけることも躊躇しないであろう、と主張したのである。・・・
 1920年3月に完成をみた・・・太平洋戦略に関する「オレンジ作戦戦略」、大西洋・太平洋両面戦略に関する「レッド・オレンジ(Red-Orange)作戦計画」、そして「基本的[戦闘]準備計画」(Basic Readiness Plan)・・・<について>の説明によると、「オレンジ」(日)と「ブルー」(米)との間に戦争が勃発しても「レッド」(イギリス)が「オレンジ」を支援することは、ありそうにもないとされた。他方、もしアメリカがイギリスとの戦争に巻き込まれたとしたら、「…”オレンジ”が・・・直ちに”ブルー”に宣戦布告してくることは、ほぼ確実」であるように思われ<てい>た。・・・
 <要するに、>海軍将官会議の判断によれば、日英同盟は対米戦争に向けたものにほかならなかった・・・。」(419~420、421)
→第一次世界大戦終了直後の頃、米国にとって英国が潜在敵国の第一であり、その英国と日本が日英同盟を結んでいることから、対英戦争に日本が英国側に立って参戦することを米国は特に恐れており、だからこそ、当時、米国は、日英同盟を廃棄させるために全力をあげた、ということです。(太田)
 「日英同盟<は>廃棄<されたところ、>・・・1922年の五カ国海軍軍縮条約は主力艦と空母に制限を付し、米・英・日の三国間に主力艦総トン数で五・五・三の比率を確定したが、それは海軍将官会議が具申した勢力レベルの約半分でしかなかった。しかしながら、アメリカ海軍当局者に真のショックをもたらした海軍条約の条項は、・・・第19条–アメリカはアリューシャン列島、ハワイ、パナマ以西において新しい基地や要塞を一切建設しないという保証–であった。」(421~422)
→米国は、日英同盟の廃棄に成功してもなお疑心暗鬼は消えず、日英が結託すれば米国は八対五の劣勢だというのに、太平洋には碌な基地もつくれなくなってしまった、という気持ちだったのでしょうね。(太田)
 「統合作戦計画委員会の1928年度状況判断は、・・・日米間の紛争の原因を中国問題、移民問題、フィリッピンの安全保障、極東における日本の確固たる海軍支配の追求、などをめぐる対立点に帰していた。このような対立点から戦争が発生した場合、アメリカは同盟国もなく、友好国もほとんどない状態で戦争する破目になるであろう、と同委員会では予測した。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドはアメリカに全面的な同調を示すであろうが、イギリスは中立固持に努めるであろうと・・・予想した。・・・イギリスがアメリカの対日封鎖を妨害しないよう抑止するために、カナダに睨みをきかす目的で、アメリカ国内に50万人の予備軍を維持することを作戦プランナーたちは提案した。また同委員会には、資本主義打倒をもくろむクレムリンの支配者は、利己主義にこり固まった中国の軍閥たちと同様に、日本寄りの立場を取るであろうと思われた。フランスは、すでに秘密外交協定によって日本の陣営に加わっているものと信じられていた。ただオランダ一国のみにアメリカの作戦プランナーたちは好意的中立を期待しており、それによってオランダ領東インド諸島からフィリッピン駐屯アメリカ軍への石油供給が保障されるであろう、と彼らは考えたのであった。」(430~431)
→1928年には、いささか大げさにせよ、米国は、自国を孤立無援であると見ていたというのに、わずか13年後の1941年には、現実に、日本が孤立無援になっていたのは、この間、英国が、日本の事実上の同盟国から敵国へと、180度、とんでもない変身を遂げたためです。
 いずれにせよ、1928年の時点で、支那の国民党どころか、ソ連(赤露)まで日本に与する可能性があると見ていたとは、いくら米国人が国際情勢音痴であるにせよ、常軌を逸しています。(太田)
 「1930年、陸海軍統合会議は、「レッド作戦計画」を作成した・・・。しかし、「レッド・オレンジ」作戦計画・・・は単に起草の段階にとどまり、ついに完成をみることがなかった。」(434)
→米国は、この時点で、ようやく日英が結託して米国と戦う可能性は少ないと思うようになっていたことが分かります。
 米国は、それでもなお、しっかり対英作戦計画は策定していた、ということです。(太田)
 「<満州事変直後の1931年10月の段階で、>アメリカのフィリッピン統治権維持は、「極東における大英帝国やオランダの領土を日本に侵犯させないための保証」になる、と陸海軍統合会議は主張した。これに反して、アメリカのフィリッピン撤退は、イギリス、オランダ、フランス、そして”在華外国人”にとって、「重大な結果をもたらす」であろう。その結果、白人諸国の[アジア植民地]領土に不穏状態が生じ、日本に西太平洋の政治的支配を許すにいたり、そうなれば「低開発諸民族の過激な社会的・政治的変革」を抑制しようとしている他の列国に、恐るべき重荷を負わせることになるであろう–。陸海軍統合会議の見解によると、アメリカのフィリッピン領有は、「日本を除いては、世界一般にとって有利な資産」であり、また「非常に貴重なアメリカの威信を東洋の人々の心の中で」高めるものであった。」(436、440)
→米国政府の東アジアに係る国際情勢認識がかくも常軌を逸していたのは、デラシネの米国人にとって本来的に外国人の心情を理解するのが困難であるだけでなく、米国の目となるべき外交官の大部分が職務怠慢で不勉強であった上、米国人がおしなべて人種主義者であって、人種主義的に世界を歪められた形で見ていたからである、ということが余りにもよく分かるくだりです。(太田)
(完)