太田述正コラム#4528(2011.1.29)
<日英同盟をめぐって(その1)>(2011.4.23公開)
1 始めに
XXXXさん提供の細谷千博 イアン・ニッシュ監修『日英交流史1600~2000 1政治・外交I』(東京大学出版会 2000年)からの抜粋の部分的紹介をしたいと思います。
2 デイヴィッド・シュティーズ「相互の便宜による帝国主義国の結婚–1902~1922年の日英関係」
「日本が英国と結んだ同盟は、20世紀に日本が結んだ重要な同盟関係の最初のもので、日本の利益増進に最も成功した。1940年の三国条約につながったベルリン-ローマ-東京枢軸派失敗と判定されなければならないし、米国との1951年以降の同盟が成功か不成功かはまだ判断できない。」(183)
→恐らくシュティーズは英国人なのでしょうが、日米安保が「成功か不成功かはまだ判断できない」と10年前の時点であえて記したことは、含蓄に富んでいます。(太田)
「同時代の・・・<英国の>鋭い認識力のある時事解説者たちは、<日英>同盟を双方の国家にとってすぐれた意味をもつものと見た。それは、愛ではなく、相互の便宜による結婚であった。」(183)
→「愛ではなく」については、当時の日本での受け止め方とは違っています(後述)。
英国でも日本でのそれと同じ受け止め方をしたむきも存在すると私は想像しているのですが、ご存じの方はご教示下さい。(太田)
「日本にとって、1900年以後は早めに<ロシアと>戦争に入る方がより有利であった。シベリア鉄道およびその満州の補助的鉄道の建設が進捗しており、ロシアの戦略的地位はその間改良されていた。いま一つは、いかに単独戦争に持ち込み、1895年の三国干渉の再現、すなわちロシアの同盟国フランスと、友邦となる可能性のあるドイツの直接介入を防ぐかということであった。日本は、せめて他の諸強国を遠ざけ、また少なくとも彼らが干渉に出た場合に支持してくれるであろう同盟国を必要とした。その役割を果たす真剣な候補者がただ一国存在した<というわけだ。>」(186)
→日本にとっての日英同盟締結の必要性が簡潔に示されています。(太田)
「ロシアは03年7月から04年2月に至る日本との交渉を<日本を>軽蔑しつつ行った。03年から04年2月のロシアのアプローチと1941年のアメリカのそれとの間には興味深い相似がある。どちらの場合も、日本が和解の道を求め、タイム・リミットが課せられ、そして協定に達しなければ戦おうとしていたのである。ロシアは40年後のアメリカと同様に交渉を引き延ばし、偽り、時を稼いだ。・・・1904年の結果は、41年と同様、日本の奇襲攻撃–04年旅順のロシア海軍部隊に対する水雷艇による攻撃–であった。」(190)
→この米国を揶揄する記述ぶりもシュティーズが英国人であるとすれば、よく分かります。(太田)
「結局アメリカの並々ならぬ後援のもと、1905年8月・・・ポーツマスで講和会議が開かれた。・・・アメリカはその重要な20世紀の役割の一つ–仲裁者、調停者、和解者としての役割–を果たし始めたのである。その軌道はセオドア・ローズヴェルトとポーツマスからビル・クリントンとデイトン[オハイオ州の都市、ここで1995年11月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ民族紛争調停工作が行われた]にまで伸びている。」(191)
→あらゆる歴史は現代史、を地でいくようなシュティーズの記述が続きます。(太田)
「<日英>同盟<改訂にあたって、英国は、>同盟の地理的適用範囲をインドに拡大する<ことを期していたが、皮肉なことに、>・・・ロンドンとカルカッタでは、アジア人<(日本人)>にヨーロッパ人<(ロシア人)>が敗れたことでアジアのナショナリズムが高揚することは避け難く、英国のインド帝国保持はより困難になるとの見解が広がっ<てい>た。起こるかもしれないヨーロッパ人<(ロシア人)>からの脅威に対して、インド防衛のために日本人(アジア人)を必要とする<とはこれいかに、というわけだ。>」(195)
→にもかかわらず、英国は、インド防衛を眼目とする日英同盟改訂をなしとげます。
英国が人種主義的でなかったからこそ、そうしたわけです。
なお、英国がこの時点でインドを独立させたくなかったことは理解できます。(太田)
「1909年タフト大統領と・・・フィランダー・ノックス国務長官・・・の<米>新政権は、清国政府への借款供与と鉄道管理を通して、ロシアと日本が満州で保持する地位を覆そうと試みた。・・・<この時は>アメリカは敗れて退いた。」(199)
→日英同盟は南満州における日本の利権を担保していたところ、米国はこのような形で日英同盟に挑戦を始めたわけです。(太田)
「<しかし、>英国<で>・・・日英同盟<に対する>批判が・・・1910~11年までに容易ならぬ大きさとな<った>・・・。
<それは>とくにカナダとオーストラリアで著しくなりつつあった。それは一つには、日本海軍の発展と、太平洋および東南アジアで可能性のある日本の帝国主義的野望に対する疑念によるものであった。さらに日本への人種的敵意、日本人のカナダへの移民に対する嫌悪、それにいかなる移民の意向に対しても「白豪主義」で対応するオーストラリアの声高な反対もはたらいていた。
<また、>・・・日本との同盟が対米関係に悪影響を及ぼし始めていることが気付かれていた。・・
<にもかかわらず、>エドワード・グレイ外相は、1911年5月の英帝国会議で、自治領首相たちに同盟の必要性と重要性を納得させようと懸命に努めた。同盟がなければ、日本はより大規模な、より強力な艦隊を作り出すであろうし、ヨーロッパ情勢を考えれば、これに対抗して極東及び太平洋での権益を防衛することは不可能であろう、・・・というのである。・・・
さらに・・・ホワイト・ホール<(英国行政府
http://en.wikipedia.org/wiki/Whitehall (太田)
)>とカルカッタ<(現在のコルカタ。1911年まで英国のインド政庁が所在
http://en.wikipedia.org/wiki/Kolkata (太田)
)>双方ではロシアへの疑念が拭い去られないままに残っていた。・・・
何にもまして、1906年以後の英独海軍競争と、悪化するヨーロッパ情勢<を鑑みれば、>同盟は・・・英海軍力の大部分をドイツに対抗して本国水域に集中させることを可能とし<てい>た。」(199~202)
→できそこないの米国にちょっと似たカナダやオーストラリアの反対を押し切って日英同盟は1911年に再改訂されたというわけです。(太田)
「日本が<第一次世界大戦中、>・・・帝国主義国として行動したことは確かであるが、同盟国や敵国以上に帝国主義的だったわけではない。このことの信頼できる証拠は、18年に・・・連合国がシベリアに干渉した時に示された。ロシア領極東に軍隊を進出させた日本は同地域での帝国主義的野望を強く批判された。しかし日本は、英国が中央アジアやカスピ海およびその周辺、さらに実際シベリアで行っていたことを、それよりも遙かに小規模にしていただけであった。
・・・日本<は>英国との同盟に忠実であり続け・・・、1915年の21ヵ条要求<(注1)>の際に最も顕著となったように英国の抗議に耳を傾け、尊重し<た(注2)>・・・、そして大戦が終了した後、同盟<は>充分機能し得る状態にあった・・・。
山東省のドイツの経済的特権と青島居留地の日本への移譲は<ヴェルサイユ>会議で承認され、講和条約に織り込まれた。・・・<この>報は、中国共産主義の起源のなかで非常に重要となった五・四運動<(注3)(コラム#1561)>を引きおこしたし、・・・中国・・・が講和条約調印を拒否する事態をもたらした。さらに山東問題は、米上院が講和条約批准を拒否する一因となった・・・。」(206~208)
(注1)1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に行った5号21か条の要求のこと。「日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と呼んだ。」「<しかし、米国でさえ、>1917年に石井・ランシング協定を結ん<でこの要求等を事実上認めた>。1919年、大戦後のパリ講和会議でも<この>日本の要求が認められた・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%83%B6%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
(注2)「中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他」を盛り込んだ5号条項(秘密・希望条項)を「後に撤回した」こと、または「ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた<米国との>二国間協議で、日本<が>山東省権益などを放棄した」こと、のどちらかを指していると考えられる。(ウィキペディア上掲)
(注3)「<その>政治的背景は2つある。まず対華21ヶ条要求受諾が挙げられる。・・・次の政治的背景には中国軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは中国における様々な利権であった。1918年5月には「日華軍事防敵協定」が結ばれ<た>。」『日本はロシア革命に干渉することを目的として、ドイツ軍の極東進出を防ぐという名目で段祺瑞政権との間に<この>秘密軍事協定を結んだ<ものであり、>・・・北部満州・モンゴルなどでの日本軍の自由行動、諜報機関の設置、中国軍の日本軍への隷属を規定して・・・<いた>。』
「<これに加えて、>文化的な背景として、・・・全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革など<を>その内容<とする>・・・新文化運動・白話文運動を挙げることができる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95 (「」内)
http://www.c20.jp/text/ks_cyugo.html (『』内)
→シュティーズは、日本の当時の対支政策に理解を示しているように見えますが、要は日本の政策を英国の帝国主義的政策と同一視しているところ、「日華軍事防敵協定」を見れば、日本の対支政策が、一貫して対ロシア安全保障の観点から展開されていたことが分かるのであって、シュティーズはここのところが全く分かっていない、と言わざるをえません。
対華21ヵ条要求は、対ロシア安全保障を背後から脅かしかねないところの、ガバナンスが欠如したところの辛亥革命後の支那について、日本の強力な支援の下にそのガバナンスの回復を図ろうとしたもの、と理解すべきなのです。
尾崎行雄(1858~1954年)や吉野作造(1878~1933年)、そして日本の有力新聞がこの要求を支持したこと
http://www.geocities.jp/uso888/manshuu1.html
は、このような文脈の下で理解されるべきでしょう。
(吉野については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%83%B6%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82 上掲
に典拠が示されているが、尾崎については、典拠をご存じの方、ご教示願いたい。)
(続く)
日英同盟をめぐって(その1)
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