太田述正コラム#4536(2011.2.2)
<日英同盟をめぐって(続)その1)>(2011.4.27公開)
1 始めに
 XXXXさん提供の「平間洋一 イアン・ガウ 波多野澄雄 編 『日英交流史三巻 1600―2000 軍事』東京大学出版会 2001年」からの抜粋の一部をご紹介し、私のコメントを付します。
2 平間洋一「日英関係史における軍事」
 平間洋一(1933年~)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%96%93%E6%B4%8B%E4%B8%80
さんは、私の敬愛する、年長の元同僚(私が防衛大総務部長であった時の図書館長)であるだけに、まことに言いにくいのですが、彼が、編者3人のうちの代表格としてこの序文を書いているところ、もっぱら海軍のことだけを書かれ、かつ陸軍悪者論に立っておられるかのように見えるのは残念です。
 (平間さんは、防衛大1期生で、海上自衛官(海将補)を経て防衛大の教授になられ、同校を退職されて現在に至る、という経歴をお持ちです。)
 戦後の吉田ドクトリンの下、前者は、防衛庁/防衛省の文官による陸海空分断統治「政策」の反映であろうし、後者は、外務省、旧海軍、及び占領軍が「共謀」して創り上げた社会通念への無意識的迎合であろう、と私は同情申し上げている次第です。
 
 「チャーチルは・・・次のように述べている。
 日本がきちんと守っていた日英同盟の継続が、英米関係の障害になるということをアメリカが明らかにした。その結果、この同盟は消滅せざるを得なかった。同盟条約の破棄は日本に深刻な印象を植え付け、西洋のアジアの国の排斥とみなされた。多くの結びつきがばらばらになったが、それらは後になって平和にタイする決定的価値を発揮するはずのものであった。しかも日本は、ワシントン条約によって艦艇の保有量を英米より低い比率に規定されてしまった。かくて、ヨーロッパでもアジアでも、平和の名において戦争再発の道を切り拓く条件が戦勝の連合国によって急速に作られた。」(3)
→チャーチルの『第二次世界大戦回想録』第一巻(1949年)(原著:The Second World War: Gathering Storm(1948))からの引用ですが、チャーチルは1965年の死の少し前(コラム#4212)どころか、先の大戦後、それほど時間が経っていない時点・・ただし、1947年8月に既にインドが独立していた
http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_independence_movement
し、1948年3月にはマライ共産党の叛乱が始まっていた
http://www.malaysia.alloexpat.com/malaysia_information/history_of_malaysia.php?page=0%2C3
・・に、早くも、チャーチルは、日本を開戦に追い込んだことへの悔恨の念を表明していたことになります。(太田)
 「また、14年間にわたり在米日本大使館の顧問をしていたアメリカ人フレドリック・ムーアは、・・・次のように指摘している。
 米国が英国を強要して日本との同盟を廃止させたのは、・・・アメリカ国民と政府・・・の失策だった。・・・以後日本は起こり得る戦争に備える独自の行動へと方向を転換した。ドイツが軍事力を回復した時、それと協力しようとする道が気持ちのうえで開けたのである。日本海軍はこの時まで、国民の間に強い勢力を持っていたが、日英同盟の破棄によって弱化し、陸軍に支配的な威信を譲り渡してしまった。もしも、日英同盟が存在していたならば、文官と海軍の勢力によって、陸軍に十分な抑止力を加え続け、陸軍が中国へ進出することを防止しただろうということさえあり得たかもしれにあと私は考える。・・・
 このように、日英同盟の解消による英海軍との疎遠が、日本海軍の皇室との関係を希薄にし、英海軍を教師としてきた海軍の国内政治上の地位を下げ、1930年代には、ドイツを「教師」としてきた陸軍の発言力を高め、日本をドイツに近づけ、日本を戦争へと導いていったのであった。」(3~4)
→平間さんは、ムーアの言っていることを、ほぼそのままなぞっておられるけれど、「皇室との関係を希薄にし」とか「海軍の国内政治上の地位を下げ」については、直接的典拠がつけられていません。
 例えば、陸軍の将官になった皇族は累計で13人
http://www.h3.dion.ne.jp/~duke/imperial/imperial7.html
であったのに対し、海軍の将官になった皇族は累計で6人にとどまり、
http://www.h3.dion.ne.jp/~duke/imperial/imperial8.html
陸軍の方が確かに多いですが、そもそも、将官の数が陸軍の方がはるかに多かった・・大将になった者は累計で、陸軍で134名、海軍で77名という差があり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%B0%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%B0%86
自衛隊での経験に照らすと、中将、少将と階級が下るに従って両軍の数の差は大きくなったはずであり、「皇室との関係<が>希薄」になったかどうかは、数字の上からは疑問です。
 また、「国内政治上の地位」のバロメーターとも言うべき予算配分の面でも、帝国海軍が帝国陸軍よりも冷遇された、ということは聞いたことがありません。
 もっとも、「国内政治上の地位」こそ帝国陸軍に比べて遜色がなかったとしても、帝国陸軍に比べて帝国海軍が国内政治だけでなく、国際政治にも疎かったことは否めないのではないでしょうか。
 実際、我々は、日英同盟破棄後も、帝国陸軍が、日英同盟の事実上の復活を追求し続け、かつ、英陸軍の隊付の受け入れを続けたことを知っています。
 もともと、陸軍に比べると、海軍は配備された基地の後背地域との結びつきが希薄であり、それだけに国内政治に疎くなりがちであり、これをカバーするためには陸軍以上に国内政治の情報を集めるとともに広報宣伝活動を行う必要があったというのに、帝国海軍は一貫してその努力を怠ったように思われます。
 その代わり、もともと、陸軍に比べると、遠洋航海等を通じて海軍は国際感覚が身についているものですが、帝国海軍は、これについても、英陸軍の隊付の受け入れに加えて、満州や華北への駐屯とその地での政治への直接間接の関与を通じて国際感覚を培ったところの、帝国陸軍に遅れをとった、と思われるのです。
 かねてから、私は、戦前の日本のエリート教育の最大の問題点は、軍事エリート教育と非軍事エリート教育への分断(コラム#1437、1482、3105、3610、3925)にあったと考えているわけですが、軍事エリートについて言えば、その教育はもっぱら戦術教育だけであって、戦略面での教育はほとんどなされなかった、よって、国内外の政治に係る教育もほとんどなされなかった、と見ています。
 すなわち、帝国陸軍に関しては、陸軍大学校での教育は、参謀実務が中心で、行政官としての教育どころか、指揮官としての教育すら十分行われませんでしたし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
帝国海軍に至っては、海軍大学校卒業が将官への必須要件ですらありませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 その中で、帝国陸軍の方は、かかる教育面での欠缺を実践的に補えた(補った)のに対し、海軍は補えなかった(補わなかった)、というのが私の見解なのです。(太田)
(続く)