太田述正コラム#4540(2011.2.4)
<日英同盟をめぐって(続)その3)>(2011.4.29公開)
<Fat tailさん通報史料によるイアン・ガウ論文の補足>
–Timothy D. Saxon ‘Anglo-Japanese Naval Cooperation, 1914-1918’ 米海軍大学紀要掲載(2000年) より–
「<第一次世界大戦が始まった当初、かねてより、日露戦争勝利後の日本の支那への膨張を快く思っていなかった英外相のエドワード・グレイ(Edward Grey)は、>1914年の夏には戦況が悪化しつつあったというのに、英海軍省の反対にもかかわらず、日本の参戦を防ごうと画策した。・・・
<Tジェリコーの前々任の英海軍軍令部長ジョン・フィッシャー(John Fisher)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Fisher,_1st_Baron_Fisher
は、日本の参戦を求めた。そして、>1914年8月11日、<英海軍大臣のウィンストン・>チャーチルは、<グレイをこの件で「叱責」した。>
このチャーチルの諫言を受け、グレイは日本の参戦反対から日本の全面的参戦へと態度を改めた。
山縣有朋公爵の日本政府は、1914年8月15日に・・・対独最後通牒をつきつけ、・・・23日に対独宣戦布告をした。」
→軍事に疎い外相を、軍事的に尻に火がついていた海軍省の文官たる大臣と制服組がタッグを組んで、日本を参戦させるべく説き伏せた、ということですね。(太田)
「明治期を通じ、日本国内政治が帝国陸軍に海軍を上回る政府部内での政治力を与えた。
<海軍出身の>山本<権兵衛>内閣において、海軍の地位は若干強化されたが、後継の大隈内閣での力の均衡の変化は、1914年11月、陸軍をして海軍部隊の欧州戦域への派遣に拒否権を行使することを可能にした。
それぞれ海軍と陸軍を訓練したところの、英国とドイツ間の紛争の勃発は、陸海軍の見解に相違をもたらしたのだ。
プロイセンによって訓練された陸軍は、ドイツ率いる中欧列強にシンパシーを抱いたが、英国海軍によって訓練され、英国海軍を範とした海軍は英国と三国協商を支持した。
この忠誠先をめぐる<部内>紛争は、この戦争の間中、英国を助けようとする日本政府の試みに付きまとうこととなった。」
→この「反英」陸軍が、第一次世界大戦後は「親英」に、そして「親英」海軍が、逆に「反英」に変化する、というわけです。(太田)
「<このように、>日本の軍部がどちらの側を支援するかで意見が分かれていただけでなく、戦争初期には平均的な日本市民は日本が戦争をしていることをほとんど知らなかった。
ドイツに発する日本への急迫なる危険の感覚が欠如していたので、戦争に気づいている日本人の大部分はそれ<(日本の参戦)>を不可解に思った。
公的には協商側を支援していたけれど、日本政府は自国ではこの戦争が目に付かないようにした。
戦時中日本にいた英国の将校の経験が、<日本政府の>この紛争への低姿勢方針を物語っている。
1917年11月、<日本の>帝国海軍が太平洋とインド洋、それに地中海で作戦に従事していた時、(日本軍との交換プログラムに参加していた英陸軍将校の)マルコム・ケネディ(Malcolm Kennedy)は日本の田舎を旅していて平均的な日本の農民の生活に戦争が直接的影響を及ぼしていないことを発見した。
農民達と二度にわたり話をしたケネディは、彼らに日本が戦争をしていると伝えたところ、そのことを全く信じようとしなかったことにびっくりした。」
→ケネディは日本国内で日本の連隊に隊付になっていたと思われます。
このように、英陸軍が帝国陸軍との相互交流努力を通じて培った帝国陸軍との人的結びつきや、日本理解と日本への愛着が、「反英」帝国陸軍を「親英」へと変化させたのではないでしょうか。(太田)
「1917年4月と5月に、<グレイの後継英外相たる>バルフォア(Balfour)は、ウッドロー・ウィルソン<米大統領>の個人的使節であるエドワード・M・ハウス(Edward M. House)大佐と秘密協議に入った。
英側は米側に対し、切実に必要とされていた護衛艦艇群を多数建造するよう提案した。日米間に紛争が起こった時には英国が<米国を>助けるとの約束がその見返りだった。
両者は、戦争のこのような最終場面においても英国の最も重要な同盟国であり続けていたところの、日本を怒らせることを恐れて、最終的にかかる協定は結ばないことにした。
とはいえ、こんな交渉があったということは、1917年における英米の日本に対する敵意(antipathy)と不信(mistrust)がいかに大きかったかを示すものだ。
米国の指導者達は、日本との関係を支那に関する憂慮及び人種的偏見(bigotry)のプリズムを通して見ていた。
ジェームス・リード(James Reed)は、第一次世界大戦の前、「太平洋岸の政治家達、労組の指導者達、(堕落した日本人の安ホテルで白人の乙女達が死体で発見されるといった話もニュースとして取り上げた)ハースト系のジャーナリスト達、そして、恐らくは、そのオレンジ計画が実は黄色(人相手の)戦争計画であったところの、米海軍の将校団、、が米国における反日感情の源だった、と記している。
このような<反日>感情が、米国の支那に関する「門戸開放」政策とあいまって、米国の世論<全体>を反日へと変化させたのだ。
米国の指導者達は、日本が、支那において不公正な領土的かつ政治的優位を追求していると見た。
もっとも、米国人の大部分は、支那を、そこで奉仕していた多数の宣教師達の目を通じてしか知らなかったのだが・・。
<しかし、>米国の第一次世界大戦への参戦は、米日関係の行き詰まりを解決する新たな試みを必要とした。
戦争初期における英国のように、米国は、太平洋における日本の善意と支援に依存するせざるをえなかった<からだ>。
石井菊次郎率いる日本のワシントンへの使節が、米が、その戦闘艦艇群を<太平洋から>大西洋へと回航し英国艦隊を支援することを可能とする協定を締結した。
この秘密協定でもって、日本の戦闘艦艇群は、戦争終結まで、ハワイ諸島海域を哨戒することとなったのだ。」
→私がこれまで縷々説明してきたところの、米国の当時の人種主義的帝国主義の何たるかが簡潔に示されています。
また、石井-ランシング協定(コラム#4500、4518)がどうして締結されたかが、実に良く分かりますね。
こうして、第一次世界大戦末期、日本海軍は、ほぼ単独で太平洋とインド洋全域の海上交通の安全を維持する役割を担ったのです。(太田)
(続く)
日英同盟をめぐって(続)その3)
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