太田述正コラム#4542(2011.2.5)
<日英同盟をめぐって(続)その4)>(2011.4.30公開)
 「<地中海に派遣された帝国海軍の艦艇部隊についてだが、>フランス<艦艇部隊>の効率水準は間違いなく英国のそれより低かったが、フランスに比しイタリアの方が更に低かったところ、日本のはそうではなかった。
 佐藤提督の護衛艦群は高度の稼働状況に維持され、英国のそれと少なくとも同じくらいの割合を海で費やした。これは、フランスやイタリアのいかなるクラスの艦艇とも比較にならないくらい<高い稼働状況>だった。
 しかも、日本人達は管理と補給全般にわたって自分で自分の面倒を見たのに対し、フランス人達は、他者にやってもらえる時は一切自分で何かをやろうとはしなかった。
 日本の戦闘艦艇群の稼働率は72%だった。英国の実績は60%であり、ギリシャとフランスに至っては、わずかに45%だった。」
 「どうして英国はかくもすぐに同盟者達の大義への<日本の>支援・・地中海におけるもののみならず太平洋とインド洋における支援・・を忘れてしまったのだろうか。
 どうして英国は、日英同盟が1921年に廃棄されるにまかせたのだろうか。
 最も明白な理由は、第一次世界大戦の結果、太平洋における状況が単純化されたことだ。
 共通の敵の欠如がこの同盟の主要な根拠を失わしめたのだ。
 英国の極東における諸所有物に対するドイツの脅威が除去され、生まれたばかりのソ連がもはやインド・・大英帝国の王冠の宝石・・への脅威でなくなったため、英国は日本の海軍の協力を必要としなくなったのだ。
 日英同盟の絆が断ち切られたことは、実際、日本をドイツとの協力へと導いた。
 <第一次世界大戦で日本が捕獲した>ドイツの<2隻の>潜水艦の<日本への>到着は、日本海軍とドイツ海軍の新しい長期的関係を開始せしめた。
 ドイツの影響と技術がすぐに英国のそれらに取って代わった。
 日独両海軍は、要員の交換<プログラム>を始めた。
 数多くの日本の将校達が1920年代と30年代にドイツで訓練を受け、日本帝国海軍の(その先生たる)英海軍との最終的な決裂(break)を促進した。」
→改めて思うのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦は一つながりの大戦であって、違うのは、(どうでもよいイタリアのことを捨象すれば、)日本が米英の同盟側から敵側に変わった点だけであるところ、この形式・実質両面における相違点にあえて付け加えれば、実質面な相違点として、第一次世界大戦開始時点では、米英と一応価値観を共有していたロシアが、敵対的な価値観を抱くに至っていたというのに、第一次世界大戦同様、第二次世界大戦においても、米英の同盟国として戦ったことです。
 このように、日本についてもロシアについても、考えられないこと、ありうべからざることが途中で起こったわけであり、そんなことになったのは、一義的に米英両国の責任である、と言わざるを得ません。(太田)
4 平間洋一「日英同盟と第一次世界大戦」
 抜粋を紹介した上記Timothy D. Saxon論文と重複する部分は省いて、この平間論文を抜粋しました。
 「義和団に北京で包囲され55日間籠城した時・・・『ロンドン・タイムズ』特派員モリソン・・・は・・・日本軍指揮官の指揮のすばらしさと、部下たちの武勇と軍規の厳正さ、臆病なヨーロッパ諸国の兵士の様子を包み隠さずに書いた。この記事を受け『ロンドン・タイムズ』は社説で、「北京籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はない。…日本兵の輝かしい武勇と戦術が北京籠城を持ちこたえさせた」と絶賛した。・・・<これに加えて>ロシアの第二次露清秘密協約<(注1)>の暴露などが、英国の世論を反露へと傾け、それが英国の親日世論を喚起させ、日英同盟への人種偏見の壁を破ったのであった。」(57~58)
 (注1)ロシアは、1897年、清との間で秘密協定(Russo-China Agreement)を結び、東支鉄道(Chinese Eastern Railway)の敷設権を獲得した。次いでロシアは、翌1898年に清との間でパヴロフ協定(Pavlov Agreement)を結び、大連(Dalian)と旅順(Lushun)の25年間の租借権と東支鉄道の大連、旅順への支線・・後に南満州鉄道となる・・の敷設権を獲得した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Dalian
 第二次露清秘密協約とは、パヴロフ協定の秘密部分を指している?(太田)
→これは、良く知られている話です。(太田)
 「<日本の>第一次世界大戦への参戦にともない、青島攻略作戦が行われ<たが、>・・・英海軍の士気や戦意は、・・・植民地駐屯兵からなる陸軍に比べ旺盛であった。」(59~60)
→帝国陸軍は、第一次世界大戦では、この時くらいしか出番はなかったのですが、英陸軍について良いイメージは抱かなかったと思われるのに対し、英海軍について、帝国海軍は引き続き良いイメージを維持したと思われます。
 にもかかわらず、大戦が終わった頃には、英海軍と帝国海軍の関係は、以下のようなことで、著しく悪化するのです。(太田)
 「1915年2月15日午後、シンガポール・・・<で>駐留インド兵の反乱<が起こった。帝国海軍は、陸戦隊を投入し、英海軍の>陸戦隊とともに、暴動の本拠地・・・を攻撃、・・・占領し以後暴徒を追跡し、・・・インド兵を捕え英軍に引き渡した。」(62~63)
→こんなことでも帝国海軍は英海軍に協力した上、既にご紹介したように、太平洋とインド洋での海上交通の安全を確保し、更には、地中海で見事な働きをするわけです。(太田)
 「駐日海軍武官ライマー大佐は、1918年3月11日に「日本の現状」という報告で、次のように不満を述べている。
 日本の政治家は日英同盟が日本外交の”Keystone”などと常に公言しているが、この戦争に対する日本の原則は、第一に最大の経済的利益を追求することであり、次いで戦後の国際関係を考慮し、ドイツに強い反日感情が起こらないよう、同盟国への援助を控え目とすることであり、日本の行動はすべてこの二つの原則に支配されている。日本における親独感情は目に余るものがあるが、これは日本の指導的な学者・医者・法律家などがドイツに学び、さらに日本陸軍がドイツ陸軍をモデルとしているからである。このため、ドイツの敗北はドイツ方式を採っている日本陸軍の評価を低下させるものとして、陸軍には不快感をもって迎えられている。・・・」(66)
→平間さんが述べる、当時の日本のジャーナリズムの論調(後出)によって誤解した面もあるのでしょうが、やはり、英海軍幹部の目がいかに曇っていたかを示すものでしょう。(太田)
 「大戦終結1年前の1917年3月に開かれた、大英帝国議会<(英国議会ではないことに注意。(太田))>に配布した「日英関係に関する覚書」・・・は次のように述べている。
 日本人は狂信的な愛国心、国家的侵略性、個人的残忍性を有し偽りに満ちており、日本は本質的に侵略的な国家である。日本人は自分たちの将来に偉大な政治的未来があると信じている。…すべての日本人は近隣の黄色人種、褐色人種よりも優れているとの優越思想を生まれたときから教えられてきた。そして、近隣諸国に日本独自の文化を押し付けることを道義的義務とさえ考えている。この日本の侵略的な野望と英国の適正な要求とを調和する余地があるであろうか。道義的に日英はあまりにも掛け離れている。このように英国の理想と日本の野望が異なる以上、両国の間に共通の基盤を確立することは不可能である。日本の教育や商業、組織や規律もドイツ式であり、このため日本人の性格も自然にドイツ式になっている。日本が東洋のプロシャになるというのは決して誇張ではない。また、資源の面から考えれば、日本の政治目的は大英帝国の部分的消滅を伴うものであり、日英間に協力すべき共通の目的は存在しない。この日本の野望をわれわれが容認できないとすれば、日本の野望を武力で阻止する時がくることを決意しなければならないであろう。日英同盟は砂上の上に存在しているにすぎない。遅かれ早かれ、わが国は日本が拡張を抑制し世界に名誉ある中庸を得た信頼に足る国家として行動するものとみなすのか、あるいは基本的には日本を東洋のプロシャとみなして対応するのかを決断しなければならないであろう。戦後の日英関係をいかにすべきであろうか。この同盟は人種的にも文化的にも異なる二つの国が、もろい紙の上に書いた条項を綴じ合わせたものにすぎない。」(67~68)
→ひどい内容の文書です。これは、公開を前提とした文書ではないのでしょうが、書いたのは英国政府のどの部署の誰なのでしょうか。
 自治領の反日的傾向にあえて迎合したものなのか、あるいは英海軍が書いたものをそのまま回付したのか、といったところではないでしょうか。(太田)
 「<対照的に、>大戦中の外相であったグレー<(グレイ)>は<1925年に>次のように大戦中の日本の行動を評価している。
 余が外相の椅子にあった過去11年間、日本は我同盟国であったが、この同盟に依て吾人に課せられた義務、並びに日本が之より要求し得る利益に就いては、日本は未だ嘗て不公平に之を利用せんとしたことは無い。日本政府及び駐英日本大使等は、吾人にとり何れも名誉ある然も忠実なる同盟者であった。(中略)日本にとり第一次大戦は領土拡張の(無比の好機会)であった。日本のような過剰な人口の捌口として、領土の必要を感ずるものが若し西洋諸国の中にあるならば、かかる目前の好機を日本のように自制し得たかは疑問である。<と。(以下は平間さんの指摘です。)>
 しかし、あまりにも軽率でセンセーショナルに報じる未成熟なジャーナリズムが反英論を煽り立て、これらジャーナリズムが政府の統制を受けていると考えていた英国は、前述のように日本の不誠実を常に強く感じていた。また、当時の日本は、連合国から離脱させようとするドイツの活発な心理戦にも晒されており、連合国である米国や英自治領などでは厳しい人種差別を受けていた。英国の自治領では日英通商航海条約への加入を拒否し、警備行動中の巡洋艦矢矧がオーストラリアでは海岸砲台から射撃されるという事件さえ生じていた。したがって、このような状況下にあった日本の対応としては、必ずしも不誠実なものでなく、グレー外相が指摘したとおり、日本は同盟国である英国に忠実であったと、総括し得るのではないであろうか。」(70、74)
→遺憾ながら、平間さん、ご自分の指摘については典拠を一切付けていないのですが、恐らくそのとおりなのでしょう。
 上記グレーの文章は、公刊された著書の中のものなので、タテマエ論である可能性があり、ある程度割り引いて受け止めなければなりませんが、本来、客観的に言って、グレーは、このように記す以外になかったはずです。(太田)
 「一方、日本ではパリ講和会議では、英自治領オーストラリアの強い反対で人種差別撤廃条項が否決され、山東問題では英国の支持が得られず不満を高めたが、特に日本人の反英感情を決定的にしたのが、日本を「将来紛争の起こり得る国家」と規定し、「英連邦自治領連合艦隊を創設すべき」とした<1919年8~10月の>ジェリコー報告、ワシントン会議の差別的軍備の強制と日英同盟の解消、その直後に始まったシンガポールの築城であった。特に、英国やオーストラリアとの共同作戦に参加した隊員の間に、オーストラリアにおける人種差別の記憶や矢矧砲撃事件、地中海に派遣された隊員の屈辱的な待遇に対する想い出や不満が表面化し、反英感情が海軍部内に高まっていった・・・。」(71)
→やはり、海軍軍令部長を辞めた直後にジェリコーが自治領を回って述べた持論は日本にも伝わっていたのですね。
 しかし、反英感情は帝国海軍でこそ高まったけれど、帝国陸軍ではむしろ親英感情が高まったようです。
 このことを、(そもそも海軍のことしか眼中になさそうな)平間さんが取り上げて解明しようとしていないのは残念至極です。(太田)
(続く)