太田述正コラム#4546(2011.2.7)
<日英同盟をめぐって(続)その6)>
 –空軍–
 第一次世界大戦中の1918年4月1日・・エイプリルフール!・・に世界で初めて陸海軍から独立した空軍をつくったのは英国です。
 そして、大戦中に南アフリカ、豪州、カナダという英自治領でも空軍がつくられました。
 それは、空軍がフィンランドでつくられるより10年早く、米国でつくられるより29年早く、イスラエルでつくられるより30年早い、先見性ある決断でした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Air_force
 では、本題に入りましょう。
 「1920年、日本海軍は英国に対し、航空戦力を整備するための援助を求めた。英国政府は日本海軍との公式協力は断ったが、1921年から23年にかけて航空機業界と英海軍航空隊の退役将校からなる「非公式」の使節団にこの仕事を遂行させた。・・・
 1922年から1930年まで、日本で生産された2000機余りの海軍航空機の66%はライセンスによって作られた英国式のものか、日本の企業で働く英国人が設計したものであった。同時に、日本海軍航空隊が英海軍航空隊をモデルに編成され、皮肉にも同航空隊の唯一の継承者になった。というのは、英空軍は英海軍航空隊の伝統を断ち切ったからである。さらに、英国が航空母艦に関する情報を日本に提供することを拒否すると、日本海軍は、英国が空母にかかわる基本的な技術問題を解決した時に、英空軍および海軍航空隊の将校であったラットランド<(注3)>を雇うことによって、これらの情報を入手し<た。>・・・1930年までに日本の海軍航空戦力は英国に比肩し、海軍航空産業に関しては英国を上回るようになっていた。英国は[後に]このためにシンガポール沖で高価な代償<(前述)>を払うこととなった。」(133~134)
 (注3)「ラットランド<(Ratland)>英空軍少佐
 ・ 第1次世界大戦:アルバート・メダル1級、殊勲十字章等受賞、イギリス軍の英雄
 ・ 大戦後、日本側からラットランドに接近、空母艦載機のアドバイサーとして。
   しかしMI6は直ぐにキャッチ、だが、泳がせておく。
 ・ 1923年退官、1924年訪日。三菱造船勤務。艦載機の設計指導等。・・・・報酬数千ポンド・・・
 ・ 1927.10、契約切れでいったん英に戻る。1932年11月、スパイとして接触開始。
 ・ ラットランドをアメリカに配置、契約内容
   ・ 年間二千ポンドの報酬、 ・ 米での活動資金提供 ・ 死亡した場合の家族への手当て ・ 最低5年間米に滞在
   ・ 主要な目的:情報収集そのものではなく、米に於ける情報網の整備、エージェントの受け皿作り等土台築き
   ・ 戦争突入時は情報収集:米艦隊の規模、配置等
 ・ 1941年6月、日本側の担当者・立花中佐がFBIに逮捕される。英側はラットランドを保護、英に送還。・・・」
http://angohon.web.fc2.com/sensi/ni-kotani-nihonkaiguntorutland.htm
 「1934年、最初の駐日空軍武官が任命された。・・・彼らは日本陸軍航空隊と英空軍との間に異なる点がある場合、それは日本の方が劣っているからに違いないと信じていた。例えば、英空軍の将校は空中戦における個人主義の重要性を曲解し、日本文化が個よりも集団を強調するため、下手な戦闘機パイロットしか育成していないと唱えた。事実はこれに反していた。・・・日本人は乗馬が不得手だから優秀なパイロットが生まれる社会階級が存在するはずがないし、日本は産業が立ち遅れているので日本人は機械になじまず、優れた飛行機を生産・保守できるはずがない。したがってパイロットも機材も改善されないであろう。これらの解釈の根底には人種差別主義と混在した国民性の思想が潜んでいた。・・・英空軍が注目したものが二つの航空部隊のなかでも二流の水準を達成することにさえ苦心していた陸軍航空隊であったことも災いした。」(136)
→私が陸海空自衛隊と関わった経験に照らせば、海上自衛隊以上に国内外の「地上」事情に疎いのが航空自衛隊であったところ、ご多分に漏れず、英空軍もそうだったようです。(太田)
7 相澤淳「戦間期日本海軍の対英戦略–「反英」への道–
 「戦間期に進行した<日本>海軍の反英米・親独的傾向<(前述)>が、海軍軍縮に対する不満と重なり、1930年代後半の海軍の政策決定に大きな影響を及ぼすのである。さらに日本海軍は、南方海洋への発展論(南進論)を組織存立の基本戦略に掲げている組織でもあった。南進は、その方向性ゆえに東南アジア植民地の宗主国中最大の規模を誇る英国との衝突を予期させるものであり、その英国は日英同盟の消滅によって、もはや同盟国ではなくなったのであった。
 1935年7月、海軍・・・は、はじめて・・・南進についての具体的検討を開始した。・・・
 翌36年・・・<4>月には海軍の今後の対外政策案として「国策要綱」が策定された。
 この要綱において海軍は、当時の陸軍、とくに石原莞爾参謀本部作戦課長による北方重視・対ソ戦準備優先の戦略(北進論)に対して・・・北守南進論を提唱していた。・・・・・・表南洋(英領マレー・ボルネオ、蘭領印度、仏領印度支那などをさす)・・・に対する政策を、まず経済的進出などの平和的方法を第一としてい<つつも>・・・、他方、万一の場合としながらも英、米、蘭に対する武力解決・・・を示している点はより強硬であった。そして、この障害国としての「英、米<、蘭等>」の列記の順序は、そのままその時の海軍にとっての敵対性の順位を表していた。」(156~157)
→南進論を組織存立の基本戦略に掲げていたのであれば、1935年半ばに初めて南進についての具体的検討を開始した、とはいささか腑に落ちませんが、それはともかく、日本政府の、対赤露を主眼とする安全保障の基本方針に反して帝国海軍が南進論を唱えたのは、対赤露では海軍の出番がほとんどなく、予算の獲得に支障が生じたからとしか思えません。すなわち、帝国海軍は、組織エゴを国益より優先させたとんでもない組織であったということになります。とはいえ、海軍が対米を唱えたのは結果的には正しかったけれども、対英を唱えたのは、1939年より前の時点においては、狂っていたと批判されても仕方がないでしょう。(太田)
 「こうした海軍による英国仮想敵国化は、この年同時に進められた国防方針の第三次改定において、それまでの海軍の敵・米国、陸軍の敵・ソ連に加えて、初めて「英国」が想定敵国の一つに並び書き加えられるという結果を導き出した。・・・
 しかも、この時の海軍の英国敵対視は中国をめぐる現実政治の場にも表れることになった。1936年9月、広東省北海で生じた抗日テロ事件(北海事件)<(注4)>に対して・・・中原義正軍令部第一部直属部員(政策担当)は、「英国は根本的に帝国の対支発展を好まず、機会ある毎に之が阻止に努力し来たる」との認識で、「問題は結局対英関係なるに付、不言実行、英の寝首をおさえる、即ち海南島進出なり」との判断を示し<た。>さらに、この中国問題をめぐる反感は、日中戦争勃発後には「支那事変に於ける英国の態度は我に敵意を有するものと断ぜざるを得ない」との確信を海軍中央部内に生むにまで至った。・・・
 1930年代半ば<における>・・・軍縮脱退<まで>の・・・海軍の・・・軍備拡張計画は実際ほとんど米国のみを意識したものであった。しかし、・・・<軍縮脱退後、>海軍が・・・南進策<の>・・・具体的検討に入<ると、>・・・英国はその「権益の間隙に乗じ極力我(日本)勢力の進出を図」るまでの対象になったのに対し、米国は「親善関係の確立」に努める相手としてその敵性を低められたのである。このような日本海軍の変化を、当時の駐日ドイツ海軍武官は、・・・1936年6月<に、>・・・<日本>海軍はそれまでの軍縮下の米国主敵論から、突如として南進構想下の英国主敵論へと転換した・・・<旨>書き記してい<る。>」(158~159)
 (注4)「1936年9月3日の夕方、北海に長く住まう薬種商の日本人・・・が暴徒により殺害された。・・・排日意識が暴動の背因をなしていた。
 事件の一報が伝わると、当時成都事件直後の日中関係は緊迫していたため日本は軍艦を派遣、また調査員を送<り、>・・・被害者の妻(中国人)及び子供を救出した。
 事件について日本側は・・・成都事件とあわせて・・・交渉を国民政府と行い、幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対<する損害賠償>その他を決定した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 ちなみに、成都事件とは、「日本の外務省は満州事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく・・・総領事代理を派遣したところ、中国側は日本の既得権益を無視し、開館絶対反対を表明し、民衆運動によってこれを阻止しようと図った。・・・1936年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大毎特派員・・・、上海毎日新聞社員・・・、満鉄上海事務所員・・・、漢口邦商・・・の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け、・・・2名が殺害され、・・・2名が重傷を負った」事件。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%83%BD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 「国防方針の第三次改定によって英国の仮想敵国化がなった年の秋、日独防共協定が締結(1936年11月)された。そして、1年後の37年11月にはこれにイタリアが加わり、ここに日独伊三国間の提携が成立した。・・・
 1938年の夏頃からおこる日独伊三国防共協定強化の動きも・・・駐独陸軍武官大島浩・・・の対ソ戦にむけての戦略強化を主眼とする動きを発端としており、日独協定に対する陸軍側の主眼は、この強化交渉が独ソ不可侵条約の締結(39年8月)によって頓挫するまでの約1年間、基本的に変ることはなかった。すなわち、この時の日本陸軍は対ソ戦を戦うための、すなわち「北進」のための日独同盟を狙っていたのである。
 こうした陸軍の動きに対し、伝統的に南進論を基本戦略とする海軍は、日独防共協定締結の時点から反対の立場をとった。ドイツに対して好意的であったといわれている協定締結時の海軍大臣永野修身も、「対ソ戦=『北進』に絶対反対」という立場から日独協定締結には否定的反応を示していた。また、この時に横須賀鎮守府司令長官であった・・・<ところの、>ロシア駐在勤務の経験をも<つ>・・・米内光政も日独防共協定締結の報を聞いて、むしろ「なぜソ連と手を握らないのか」と慨嘆するほどであった。こうした経緯から、38年夏以降に起こったソ連との敵対をさらに強める防共協定強化という陸軍の動きに対して、海軍が反対したのはまた当然であった。・・・
 ところが、いままでの防共協定強化問題をめぐる対立に関する一般的解釈では、・・・対ソ戦への備えから日独同盟を熱望する陸軍が、ドイツの希望するままに英国をも日独同盟の対象に入れようとしたのに対し、米内ら「対英関係の悪化を懸念」した海軍首脳部は、建軍以来の対英協調論から防共協定強化=日独同盟に反対していたというのである。・・・しかし、・・・防共協定強化交渉発端時(38年夏)以来の米内・・・<(光政。1880~1948年。37年2月海軍大臣就任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
)>・・・<を始めとする海軍首脳部が>一貫した対英協調論<者であった>かどうかは一考を要する。・・・
 当時の駐日イタリア海軍武官の報告によると、日本海軍は反ソ的、反共的な三国協定には関心を示さぬ一方、「日本またはイタリアが英国と直接対立するようなことになった場合、それがいかなる場合であっても反英行動を保障する」という反英協定には積極的であった。そして、米内自身もこうした反英協定の成立には大きな期待を寄せ、「本協定が纏まらざりし場合日本としては非常なる損なり」との感想すら漏していた。さらに、この時の米内首脳部は、・・・英国との対決姿勢を明確にする海南島占領作戦実施(39年2月)も積極的に政府に働きかけていた。この海南島の占領は、米内の前任首脳部(海相・永野修身)が北海事件時に「英米を強く刺激する」との理由で実行を退けていたものであった。しかも、この作戦については日中戦争勃発以来、戦域拡大を続ける陸軍ですら、海南島占領が海軍の南方指向であり、日中戦争の解決にはあまり関係なしとして反対していた。それだけに、海南島占領を推進した米内首脳部の態度は、対英協調とは裏腹のものであった。・・・
 おそらく、天皇、はその対英協調論から日独同盟には反対であった。・・・当初は対英協調姿勢の乏しかった米内ら首脳部の防共協定強化反対理由は、天皇の親英論を加味して、変質していったのではなかろうか。米内の天皇への忠誠心と、その後の天皇の米内への変わらぬ信頼を考えると、これは十分に考えられることである。・・・
 陸軍は1939年の夏に頂点をむかえる天津租界封鎖危機を通して、日中戦争開始以来の英国への敵対感情を爆発せんとしていた。しかも、この時の反英感情は日本国内にも激しい排英運動を巻き起こした。時あたかも米内ら海軍首脳部が英国をも対象とする日独間の防共協定強化に反対していた最終段階であり、ここから海軍は親英の元凶のようにみられていた<というのは皮肉である。>」(159~163)
→海軍の米内光政であれ、外務省の東郷茂徳(コラム#4534)であれ、彼らのようなソ連勤務経験者(米内については、彼に関する上記ウィキペディアに拠る)でさえ、親ソ連政府感情を抱いたり、ソ連政府を信用したりしたのは、ソ連政府に籠絡されたか、個人としてのロシア人とソ連政府との峻別ができなかったか、いずれにせよ、彼らの識見の底の浅さを示すものであると同時に、それ以上に、彼らの出身である、海軍と外務省が、どちらも組織エゴの塊のような存在であって、そのことも大きな原因でもって、海軍と外務省の幹部の人事・教育システムに深刻な欠陥があったことを示すものです。
 なお、米内が、昭和天皇の意向を受けて、海軍にとっての第一次世界大戦以来の伝統たる反英から、(外務省ばりの対英事大主義的)対英協調へと180度転向したのは、彼の反英が、海軍の組織エゴに由来する浅薄なものであったからこそである、と私は思うのです。(太田)
(続く)