太田述正コラム#4552(2011.2.10)
<日英同盟をめぐって(続)(その9)>(2011.5.5公開)
 –補遺:「マレー作戦/シンガポールの戦い」について、その日英ウィキペディアを通じて見えてくるもの–
E:http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Percival
F:http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_National_Army
G:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B2%A9%E5%B8%82
H:http://en.wikipedia.org/wiki/The_Farrer_Park_address
I:http://en.wikipedia.org/wiki/Arzi_Hukumat-e-Azad_Hind
1 事前準備 
 「日本は諜報任務員達、とりわけI・藤原<(藤原岩市。1908~86年)(G)>少佐率いる人々、を、既に戦争前に東南アジアに送り込み、マレーのスルタン達、華僑、ビルマ抵抗組織、及びインド独立運動の支持を集めようとした。」(F)
 「1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関<(F機関)>の長として、心理戦を行った。若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで・・・。」(G)
 「日本の軍事諜報機関は英印軍との空軍連絡将校であるパトリック・ヒーナン(Patrick Heenan)大尉を雇うことができていた。彼の行為がどれほど効果があったかは議論があるが、日本軍は3日以内に北部マレーのほとんどすべての連合軍航空機の破壊に成功した。
 ヒーナンは12月10日に逮捕されてシンガポールに送られ<、シンガポール攻防戦の最中、処刑され、死体は海中に投じられた。(C)>」(A)
→戦争もハードパワーだけで行うものではありません。そしてソフトパワーだって、事前準備が不可欠なのです。(太田)
 「兵站に関しては、日本軍はイギリス軍から鹵獲した食糧、燃料、軽火器等を活用した。・・・現地での徴発も円滑であった。当時マレーには500万の人口が居住し、食糧は豊かであった。このようにして日本軍は補給部隊に依存することなく軽快に行動できた」(B)
→これが、兵站軽視の帝国陸軍が、その考えを改める機会を奪った面もありそうです。(太田)
 「日本軍は(下船速度を速めるため)自転車を持っては来なかったが、それは、諜報によってマレーでは適切な自転車がたくさんあるので一般住民や小売業者から必要なだけ徴用できることが分かっていたからだ。」(A)
 「戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。」(B)
→いくら兵站軽視の帝国陸軍と雖も、自転車を持参しなかったとはちょっと考えられません。日本語ウィキペディアの勝ち。(太田)
2 パーシヴァルの責任?
 「<パーシヴァルは、陸軍大学(Staff College, Camberley)、海軍大学(Royal Naval College, Greenwich)、及び国防大学(Imperial Defence College)を修了している。>」(E)
→帝国陸海軍の将官では考えられない、クロスオーバー、そして総合的な教育をパーシヴァルは受けていたわけです。(英国防大学での私の先輩ということにもなります。)
 パーシヴァルは、装備の質量が互角で、兵站が決め手となる戦場であれば、そして政治的感覚が求められる戦場であれば、帝国陸海軍の将官よりも高い能力を発揮したのでしょうが、マレー半島(含むシンガポール)のような、兵站が問題とならないほとんど孤立した戦場で、しかも装備、とりわけ航空機と戦車において劣勢で、政治的能力を発揮する機会もなかったパーシヴァルは、日本の陸軍大学と日支戦争においてもっぱら戦術能力を鍛え上げていた帝国陸軍の将官達を相手に、惨めな大敗北を喫してしまうわけです。(太田)
 「<シンガポールの戦いの際の英軍側のうち>恐らくは15,000人は基地勤務兵だった。また、他の部隊の多くはマレー半島からの撤退の結果、疲労していたし装備が十分でなかった。反対に、日本軍の方の数はシンガポール攻略のために用意できた第一線部隊のものだった。」(C)
→英側は、実際の兵力的優位はさほどなかった、というのはその通りでしょう。(太田)
 
 「パーシヴァルの最大の過ちは、<シンガポールの対岸の>ジョホールかシンガポールの北部のどちらかに防壁を構築することを、自分の工兵監の・・・准将から構築開始を何度も意見具申されたにもかかわらず、「防御措置を講じることは、部隊、文民双方の士気に悪影響を及ぼす」として却下したことだ。
 このことで、パーシヴァルは、自分の指揮下の6,000人の工兵から引き出すことができたはずの潜在的優位を投げ捨ててしまい、日本軍の戦車群によってつきつけられていた危険に緩和する最善の機会を恐らくは逸してしまったのだ。
 パーシヴァルは、また、シンガポール北東部の浜の防御を最も厚くすることに固執したが、これは<直属上司たる>東南アジアの連合国最高司令官のアーチボールド・ウォヴェル大将<(下出)>の助言に反するものだった。
 パーシヴァルは、恐らく、シンガポールの<英>海軍基地を防御すべきであるとの責任意識に凝り固まっていたのだろう。
 彼はまた、自分の兵力を島中に薄くばらまき、戦略的予備兵力をほとんど控置しなかった。
 日本軍の攻撃が西部においてなされた時、豪州の第22旅団がこの攻勢の切っ先を受けて立った。
 しかし、バーシヴァルは、主攻は北東部においてなされるであろうと信じ続けたため、援軍を送ることを拒否した。」(E)
→シンガポールの戦いを見るだけでも、パーシヴァルの戦術的能力にはかなり疑問符が付きます。(太田)
 「チャーチルは、彼自身が、ドイツの<対ソ>攻撃が始まった時、連合国同士の善意の表明として、マレーの約350両の古い型式の戦車をソ連に提供した。
 それらは、日本軍がマレー侵攻に用いた軽及び中型の日本製戦車群に匹敵するかそれ以上のものであっただけに、仮にそれらが存在していたとすれば、マレー作戦の成り行きは逆になっていた可能性が大いにある。」(E)(典拠なし警告が付されている)
→とはいえ、チャーチル及び英陸軍上層部に、「マレー作戦/シンガポールの戦い」の敗戦の最大の責任がある、と言えそうです。(太田)
 「<1942年>2月10日の夜、英首相のウィンストン・チャーチルは、ウォヴェル<大将(Archibald Wavell。Commander of ABDACOM(the American-British-Dutch-Australian Command)。管轄はビルマ、マレー、蘭領東インド、フィリピン。ジャワ島に司令部
http://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Percival_Wavell,_1st_Earl_Wavell 
)>への電信で次のように述べた。
 我々がシンガポールの状況をどのように見ているかを自覚して欲しい。
 英帝国参謀総長(C.I.G.S. =Chief of the Imperial General Staff, General Alan Brooke)の英内閣への報告によれば、パーシヴァルは10万人を越える兵力を持ち、そのうち33,000人は英国人で17,000人は豪州人だ。
 日本軍がそれだけの兵力をマレー半島全体でも持っているかどうかは疑わしい。
 かかる状況下においては、防御側が、海峡を渡った日本軍に比べて兵力においてはるかに上回っているに違いないのであって、良く戦えば彼らを粉砕するすことができるはずだ。
 この段階において、部隊を救ったり住民の被害を回避したりすることを考えるべきではない。
 戦いは徹底的に最後まで、いかなる犠牲を払っても行われなければならない。
 <援軍として到着したばかりの英>第18師団は歴史に名を残す機会が与えられた。
 司令官達と上級将校達は彼らの部隊とともに死ななければならない。
 大英帝国と英陸軍の名誉がかかっている。
 私は、あなたが弱さをいかなる形であれ現さないであろうことを信頼している。
 ロシア軍が頑張って戦っており、米軍がルソン島で頑強に抵抗している以上、わが国とわが人種の全ての評判がかかっているのだ。
 すべての部隊が敵と接近戦を戦い抜くことが期待されている。…
 ウォヴェルは、これを受け、パーシヴァルに対し、地上部隊を最後まで戦わせるよう、そして、シンガポールで決して全面的降伏をしないよう伝えた。」(C)
→チャーチルは、さすがノーベル文学賞を後に受賞するだけあって、また、歴戦の勇士であっただけあって、迫力ある指示を送ったものです。いい気なものだ、という感を拭えませんが・・。(太田)
 「<第25軍司令官の>山下奉文<中将は、後に次のように述べている。>・・・
 私のシンガポール攻撃はブラフだったが、このブラフはうまく行った。
 私には30,000人の兵士しかなく、3対1の劣勢だった。
 私は、シンガポールで長く戦うようなことになったら負けることを知っていた。
 だから、ただちに降伏させなければならなかった。
 私は、英軍が我々の数的劣勢と補給の欠如を発見して私に破滅的な市街戦を強いることをずっと恐れていた。」(C)
→英軍側の指揮官達の心理を読む能力を含め、帝国陸軍の将官の戦術的能力の高さがよく分かります。(太田)
 「2月13日、・・・バーシヴァルに対し、上級将校達は一般住民の死傷を最小限にするために降伏するよう助言した。
 パーシヴァルは拒否しつつも、上級司令部に降伏許可を得ようとしたが得られなかった。」(C)
 「2月15日、支那の旧正月の朝・・・パーシヴァルは上級司令官達を・・・集めた会議を開催した。
 パーシヴァルは<反撃をかけるか>降伏するか、二つのオプションを示した。
 参集者全員がいかなる反撃も不可能であることに同意した。
 パーシヴァルは降伏を選んだ。」(C)
→パーシヴァルは、部下にも恵まれなかったようです。(太田)
(続く)