太田述正コラム#4554(2011.2.11)
<日英同盟をめぐって(続)(その10)>(2011.5.6公開)
3 国際法違反
「<マレー半島南端のジョホール州の>パリト・スロン(Parit Sulong)の殺戮(Parit Sulong Massacre)で、負傷して残っていた兵士達は日本軍の餌食となり拷問され殺害された結果135名中2名しか生き残らなかった。」(A)
「<シンガポールの>アレキサンドラ病院での<日本軍による英軍傷病兵や医師・看護婦等の>虐殺・・・は24時間続き、320人の男女が死んだ。・・・
一人の日本兵の捕虜まで、恐らくグルカ兵と間違われて殺された。
生存者は5名しか知られていない。」(C)
→対応する日本語ウィキペディア(B、D)には全く言及がありません。Dの前半は、Cのほぼ翻訳であると言ってよいのに、あえてこの箇所は飛ばしています。
日本軍の犯した国際法違反(の指摘)から目を逸らす日本人のウィキペディアンは非難されてしかるべきです。
可能性として、労働力として使えそうもない兵士等は捕虜にせず殺害するのが日本軍の方針であったのではないかということです。
そう考えれば、シンガポールの戦いで、英兵の負傷者数が、英語ウィキペディアでは計算上0ということになり、一方、日本語ウィキペディアでは記述がない理由の説明が付きます。つまり、英側の負傷兵のほぼ全員が日本兵によって殺害された可能性があるわけです。(太田)
「第1マレー歩兵旅団<の>・・・アドナン・ビン・サイディ(Adnan bin Saidi)少尉率いるマレー人中隊が<シンガポールでの>パシー・パンジャン(Pasir Panjang)の戦いで2日間にわたって日本軍を食い止めた。・・・<日本軍に捕らえられた>アドナンは処刑された。」(C)
「パシー・パンジャンの戦闘では、マレー人連隊はシンガポール人将校のアドナン・ビン・サイディ少尉の指揮下で激しい白兵戦を激しい損害にたえて戦い抜き、ラーラドーとケント・リッジを通過して前進しようとする日本軍を2日間食い止めた。」(D)
→一番はっきり分かるのはこの箇所です。DはCにおけるアドナンなる捕虜の処刑への言及を、あえて落としています。(太田)
「<日本軍占領下のシンガポールにおいて、>中国国民党軍や中国共産党軍>を支援していた多数の中国系住民(華僑)やゲリラが摘発を受け、粛清された。この粛清により、6,000(文部省社会科教科書)~数万人(シンガポール政府発表)が殺害されたといわれる。」(D)
→この話は、機会があれば、改めて取り上げたいと考えています。(太田)
「1945年に日本が降伏した後、山下は、彼の部隊がマレーとシンガポールで犯した諸犯罪によってではなく、その年にフィリピンで日本の要員によって犯された戦争犯罪によって、米軍事コミッションの裁判にかけられた。
彼は有罪とされ、フィリピンで1946年2月23日、絞首刑に処せられた。」(C)
→どうして日本軍のマレー作戦とシンガポールの戦いにおける国際法違反が裁判の対象とされなかったのかを知りたいところです。負傷兵の殺害なんて、連合国側でも日常茶飯事だったからかもしれませんし、そもそも、英語ウィキペディアにおける記述の根拠が薄弱である可能性もあります。日本においても、少なくとも議論がなされるべきでしょう。(太田)
4 後日譚
「1945年9月2日、東京湾上の米艦ミズーリ(BB-63)上で行われた日本の降伏条件の確認をダグラス・マッカーサー大将が行った時、パーシヴァルは、<満州の同じ収容所に収容されていた米陸軍の>ウェインライト(Jonathan Mayhew Wainwright<。1883~1953年。在比連合軍司令官・中将の時に日本軍に降伏。戦後大将
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Mayhew_Wainwright_IV
>)と並んで、そのすぐ後ろに立たされた。
その後、マッカーサーは、パーシヴァルに彼がこの条約に調印した時に用いたペンを与えた。
パーシヴァルとウェインライトは一緒にフィリピンに戻り、そこでの日本陸軍の降伏に立ち会った。
運命のいたずらで、フィリピンの日本陸軍の司令官をしていたのは山下大将だった。」(E)
「戦後に山下が戦犯として絞殺される際、米軍はパーシヴァルをわざわざ呼び寄せて絞殺を見物させた。」(D)
→Dは日本語ウィキペディアですが、直接的典拠が付けられていないので、パーシヴァルに関する英語ウィキペディアのEの方が正しいのでしょう。
ここは、日本人ウィキペディアンの米英側への反感がうかがわれる箇所です。(太田)
5 影響
(1)全般
「ペナン島から欧州人達が避難する際、地域住民は日本軍のなすがままに放置されたことは、英国人にとってはまことに恥ずかしいことであり、地域の人々との離間をもたらした。
歴史家達は、「東南アジアにおける英国の支配の精神的(moral)崩壊はシンガポール<陥落>によってではなく、ペナン島<放棄>によって起こった」と判断している。」(A)
「当時、自由フランス軍の指導者であったシャルル・ド・ゴールは、「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」と述べた。」(D)
「ウィンストン・チャーチルは、日本軍によるシンガポールの不名誉な陥落を、英国史における「最悪の災難」にして「最大の降伏(capitulation)」であると称した。」(C)
「シンガポール攻略戦での・・・捕虜<だが、>・・・これはアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来のイギリス軍史上最大規模の降伏であり、近代のイギリスにおける歴史的な屈辱であった。」(D)
→ここは説明を要しませんね。(太田)
「日本軍<は>・・・、その後3月にはジャワ島、5月にはビルマを制圧して、太平洋戦争開戦時における作戦目標を達成した。」(D)
→以上と、悲劇に終わったインパール作戦・・インド国民軍も参加・・によって、インドの早期独立が決定的となり、ひいては大英帝国の過早な崩壊がもたらされることになったわけです。(太田)
(2)F機関・インド国民軍・インド独立
このことをもう少し説明しておきましょう。(太田)
「マレーシア出身の日本人である谷豊<(1911~42年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E8%B1%8A
)>を諜報要員として起用したのもF機関<(前出)>であった。谷は死後、「マレーのハリマオ」として日本で英雄視されることになる。
F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は・・・インド史の一つのトピックである(・・・The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模の大集団となった。」(G)
「1942年2月17日の朝、約45,000人のインド人捕虜がファーラー(Farrer)公園に集められ、順次、まず一番手の英マレー司令部のハント(Hunt)大佐の話を聞かされた。
彼は、この部隊を藤原の下、日本軍司令部に委ねた(hand over)。
<次いで、>藤原がこの部隊に対して日本語で話し、それがまず英語に、そして更にヒンドゥー語に訳された。
この演説の中で、藤原は、この部隊に対し、日本のリーダーシップの下でのアジア共栄圏、自由インドとその共栄圏における重要性に関するヴィジョン、そして、インドの自由のための「解放軍」を募ることを支援する日本の意図について語ったとされる。
彼は、この公園で座っていた部隊に対し、この軍に参加するよう呼びかけた。
更に、彼は、この部隊に、彼らが、捕虜としてでなく、友人達かつ同盟者達として扱われることになる、と語った。
藤原は、彼の演説を、自分は自分達の責任と指揮権をモハン・シン(Mohan Singh<。1909~89年。第一次インド国民軍司令官(大将)、その後日本軍に拘束。戦後インド上院議員
http://en.wikipedia.org/wiki/Mohan_Singh_Deb
>)に委ねる、と述べて終えた。
<最後の>モハン・シンのヒンドゥー語で行われた演説は短かった。
彼は、この部隊に対し、自由インドのために戦うインド国民軍(Indian National Army)を編成すると語り、この部隊に対し、この軍に参加するよう促した。
その時の一人のインド系ジャワ人<兵士>の記憶では、モハン・シンの演説は力強く人々の琴線に触れ、この部隊は大いなる熱狂と感激でもって応えたという。」(H)
「<終戦後、ニューデリーの>レッドフォート(Red Fort)<(コラム#14)>で行われた<、インド国民軍兵士達に対する大逆罪>裁判において、<弁護人>によって弁護のためになされた議論の一つは、英マレー司令部はこれら部隊に対する責任を放棄したというものだ。
戦争捕虜の扱いに関する諸法に反してインド人部隊が残りの部隊から分離されることを許し、彼らを藤原に委ねることによって・・。
すなわち、<弁護人は、>このマレー司令部の行為によって、彼らの、英国王たるインド皇帝に対するもともとの忠誠の誓いは無効となり、自由インド(Azad Hind)への忠誠の採択は合法化された、と論じたのだ。
この裁判の間、イギリスにいたハントは、証言を行うよう求められたが、健康を理由に拒否している。」(H)
「1943年10月21日、・・・<チャンドラ・ボースによって>自由インド<の成立が宣言されたが、それは>自由で独立した政府であり、日本はこの政府を傀儡国家にしようなどとは全くしなかった。
日本の戦争目的には、インドの完全な解放と独立も含まれていた。・・・
大佐で・・・シンガポールの最も評判で金持ちの婦人科の医師の一人であった・・・ラクシュミ・スワミナサン(Lakshmi Swaminathan。後に結婚して姓がSahgalに。<1914年~。戦後はインド上院議員。何度も大統領候補に擬せられる
http://en.wikipedia.org/wiki/Rajya_Sabha
>)・・・は、女性団体担当相だった。
彼女は、<第二次>インド国民軍のために戦う女性兵士からなる旅団・・・の司令官を兼務しながら勤め上げた。・・・
これは、アジア大陸における最初のものだった。<世界的にもソ連に次ぐ2番目のものだった。(F)>・・・
自由インドの成立宣言にあたり、アイルランド自由国家の大統領のイーモン・デ・ヴァレラ(Eamon de Valera)は、お祝いの書簡をボースに送った。」(I)
→「自由インド政府/インド国民軍」こそ、インドの早期独立、ひいては大英帝国の早期瓦解をもたらした最大の要因であり、これに日本が決定的な役割を果たしたこと、だけでも、先の大戦で命を落とした日本軍民は浮かばれるというものです。(太田)
(続く)
日英同盟をめぐって(続)(その10)
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