太田述正コラム#4556(2011.2.12)
<日英同盟をめぐって(続)(その11)>(2011.5.7公開)
–補遺2:マレー沖海戦から見えてくるもの–
この際、マレー沖海戦についても、英語典拠でもって検証を行っておきましょう。
J:http://en.wikipedia.org/wiki/Sinking_of_Prince_of_Wales_and_Repulse
K:http://en.wikipedia.org/wiki/Tom_Phillips_(Royal_Navy_officer)
L:Arthur Jacob Marder,Mark Jacobsen,John Horsfield ‘Old friends, new enemies: the Royal Navy and the Imperial Japanese Navy’
http://books.google.co.jp/books?id=rp6mJPLuyH0C&pg=PA476&lpg=PA476&dq=Phillips;Prince+of+Wales;no+thanks&source=bl&ots=nKSwgmVFTU&sig=6gY3mfZQdAT8_091jjUOhd721dw&hl=ja&ei=97BUTZahJ8OlcOi49aYF&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CCIQ6AEwAQ#v=onepage&q=Phillips%3BPrince%20of%20Wales%3Bno%20thanks&f=false
「<海兵卒業後、第一次世界大戦を経験し、英海軍大学修了後、1919~20年の国際連盟、30年~32年及び35年~38年の海軍省本部勤務を経て、>英国王ジョージ6世の侍従武官になっていたフィリップス<(Sir Thomas “Tom” Spencer Vaughan Phillips。1888~1941年)>は、1939年1月10日、少将に昇任した。
1939年6月1日から1941年10月21日まで、フィリップスは軍令部長代理(Deputy)、そして軍令部次長(Vice)を勤めた。
<艦艇沈没事件の調査の鮮やかさに感銘を受けた>チャーチル<首相>の信頼を得て、フィリップスは1940年2月に中将に任命された。・・・
<そして、>1941年末、フィリップスは英東洋艦隊司令長官に任命されるのだが、これは海軍上層部の間で若干の議論を呼び起こした。というのは、彼は「事務屋提督」であると考えられていたからだ。」(K)
→自衛隊の一選抜幹部のキャリアパスと比較すれば、それほどデスクワークが多かったとも言えませんが、フィリップスは、その(同僚や上司が懸念を持っていたと思われる)作戦能力ではなく、事務能力でもってチャーチルに認められ、中将、更には大将心得(後出)へと、とんとん拍子で出世したわけです。(太田)
「<プリンス・オブ・ウェールズとレパルス>両艦の配備の意思決定はウィンストン・チャーチルによってなされた。
チャーチルは、サー・ダドレー・パウンド(Sir Dudley Pound)英海相と、その後、自分の友人であるところの、<英自治領たる>南ア首相のヤン・スマッツ(Jan Smuts)陸軍元帥から激しく警告を受けた。
後者は、レパルスが<南アの>ダーバン(Durban)を出発してシンガポールに向かう際の同艦乗員に対する演説で、両艦の運命を予言した。
<実は、>新造の空母インドミタブル(Indomitable)をシンガポールに派遣することが予定されていたが、同艦は、西インド諸島における処女航海の際に座礁し、他艦と一緒にイギリスから出発することができなかったのだ。
フィリップスと艦隊は、1941年12月2日にシンガポールに到着し、そこで<両艦と4隻の駆逐艦からなる艦隊は、>Z部隊と命名された。・・・この航海の途中、フィリップスは大将心得に昇任する。」(K)
→しかし、肝腎のフィリップスが、海相や南ア首相のような意見具申を上司に対して行った形跡はありません。この先を読めば、彼がそんな意見具申を行うはずがなかったことが分かります。(太田)
「(国際日付変更線の向こう側だったけれど)真珠湾攻撃と同じ日の」(K)「1941年12月8日の早朝、<日本の爆撃機が>シンガポールを攻撃した。
プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは対空火器で防戦した。
<この時、日本の>航空機は一機も撃墜されず、艦艇群も損害を受けなかった。
一方、日本軍は、<同じく同日、>」「宣戦布告なしに(K)」「マレーのコタバル(Kota Bharu)に上陸し、英地上部隊は激しく攻撃された。」(J)
「日本軍は、三箇所を同時に攻撃し、地上を基地とするありあわせの英空軍の戦闘機群を惹き付け、日本軍が攻撃準備が整った時にフィリップスへの航空掩護が行われないようにしようと図った。
フィリップスは、この罠に文字通りはまったのだ。・・・
日本空軍は<質量ともに上回っており、>英空軍に比して>圧倒的だった。
実際、英空軍も英海軍も、スエズ以東で日本軍<の零戦等>に匹敵する近代的戦闘機を1機も持っていなかった。(もっと具体的に記述せよとの警告が付せられている)」(K)
「<日本の上陸船団を攻撃すべく、Z部隊は出撃したが、航空掩護の無い状況で、日本側に英艦隊の所在位置が知られるに至った可能性があったというのに、>フィリップスは、そのまま進撃を続けることを選んだ。
この意思決定には4つの要因が作用した、と信じられている。
彼は、日本軍機がこんなに陸地から遠い所で作戦を行うことは不可能だと思っていた。
<また>彼は、自分の艦隊が航空機によって致命的損害を与えられることなどまずないと思っていた。
<更に>彼は、日本軍の爆撃と魚雷攻撃を行う航空機の性能の高さを知らなかった。
そして、英海軍の多くの将校達と同様、フィリップスは、日本兵の戦闘能力をあなどっていた。
当時まで、海上の主要艦艇が航空攻撃で沈没した例はなかった。(それまで、航空機のみによって沈没した最も大きな艦艇は重巡どまりだった。)
彼の旗艦のプリンス・オブ・ウェールズは、当時の最も先進的な海上対空システムの一つを持っていた。・・・
しかし、マレー海の極端な高温と高湿度によって、<このシステムの>レーダーが故障し、<同じくこのシステムの>2ポンド弾がひどく劣化していた。
英空軍の技術者達がプリンス・オブ・ウェールズのレーダーを点検するために呼集されたが、修理するためには1週間を要し、Z部隊<(=フィリップの艦隊)>の出航が数日後に迫っているので<修理が>果たせなかった。
豪州空軍第453飛行中隊がZ部隊の航空掩護を提供することになっていたが、<艦隊の所在が暴露されることを恐れ、彼らに>艦隊の位置は伝えられなかった。
無電による航空掩護要請は、レパルス艦長によって、同艦が日本軍の攻撃を受けてから1時間経って、ようやくなされた。
<以前、>空軍中尉(Flight Lieutenant)のティム・ヴィガーズ(Tim Vigors)が、昼間、6機の航空機をZ部隊の掩護につけることを提案したが、<地上部隊掩護を優先すべきだと考えた?>フィリップスによって拒否された。
ヴィガーズは、後に、「これは、英空軍抜きでやれると英海軍が考えた最後の戦闘であったに違いないと私は思う」とコメントした。
<英海軍は、>学習するために、まことに高額の授業料を支払わされたものだ。
フィリップスは、前夜、そして当日の明け方、自分が後を付けられていることに気づいていた。
それでも、彼は航空支援を求めなかった。・・・
昼間の沿岸以遠における航空掩護の提案は、第488ニュージーランド空軍飛行中隊のニュージーランド空軍中佐(Wing Commander)によってもなされたが、彼の「機動作戦(Operation Mobile)」も<フィリップスによって>拒否された。」(J)
「12月10日・・・11時15分<(マレー現地時間と思われる)>、フィリップス大将は<ついに>英空軍に無線で支援を要請した。
<しかし、その25分後の>11時40分、プリンス・オブ・ウェールズは魚雷搭載爆撃機によって攻撃された。
同艦は、船尾に魚雷を受け、プロペラと梶が破壊され<航行不能に陥っ>た。・・・
プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは、サイゴンを基地とする日本軍の第22航空艦隊(Air Flotilla)の 86機の爆弾・魚雷搭載爆撃機の航空攻撃によって沈没した。
<両艦の2921人の乗員中、326人が命を落とした。>
両艦が沈没してから、英空軍の航空機群がようやく姿を現した。・・・」(K)
→レパルスの艦長による航空掩護要請とフィリップスによるそれとの関係が明らかではありませんが、いずれにせよ、フィリップスの暴虎馮河ぶりは釈明の余地がありません。
もちろん、その背景には、英海軍全体の、人種差別意識に目を曇らされたところの、日本軍、就中帝国陸海軍の航空戦力に対する軽視、蔑視があったわけです。
(続く)
日英同盟をめぐって(続)(その11)
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